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2019年3月28日 (木)

《再掲載》【防災の心理16】あなたの道を見つけよう(#1379)

巷に溢れる防災情報の中から、「本当に役に立つ」情報を選択するための方法として、人間の生存本能と種族保存本能が叫ぶ「怖れ」に従えということを、前回述べました。
今回は、もうひとつの条件について考えます。

 

それは「知る」ということ。当テーマでは、「生き残る」確率を下げてしまうような場合、人間の本能でもある群衆心理に打ち勝つ方法として、正しい情報を「知る」ことが必須であると述べました。二度目の登場です。

 

でも「本当に役に立つ」情報を選択する、つまり正しい情報を「知る」ために「知る」ことが必要だとは、卵が先か鶏が先かというような話で、またもやメビウスの輪状態、などと考えるのは言葉遊びの世界で、基本的には単純なことなのです。この場合の「知る」とは、「道を知る」と言うことです。

 

あなたが知らない場所に行こうとしたら、まずそこまでの道路や交通機関を調べるのは当然ですね。数学の成績を上げようと思ったら、良い参考書や塾を探したり、勉強の時間を増やすでしょう。それは、我々が目的を達成するための「道を知っている」からに他なりません。

 

しかし災害対策の場合、多くの人にとって、絶対に達成しなければならないという最優先課題ではありませんし、体系的な教育を受けたことも無い。交通や勉強などとは違い、確立された方法論も無いし、そもそも「これで絶対大丈夫」という到達点も見えない。

 

しかし何も知らず、何も備えていなければ死ぬかもしれないという、本能的な「怖れ」がつきまといます。目的地に着けなかったり、成績が悪くても対処の方法はありますが、「死」とは対処しようのない究極の「怖れ」であり、そのあまりに大きなギャップが問題なのです。そこで目に入って来やすいのは、「生き残ってから」の情報、災害トリビア、エセ科学、オカルトのようなものばかり。そんな情報と「怖れ」は、とても親和性が高いのです。

 

「生き残ってから」の情報も大切なことには変わりありませんが、その前に生き残らなければならないのです。それは心の奥底では誰もが判っているものの、そこで前出の「正常化バイアス」や「楽観バイアス」が頭をもたげ、具体的に考えることを邪魔します。

 

自分が被災して、備えた防災グッズを駆使して被災生活を切り抜けていたり、または何も備えておらず、被災後に大変な思いをしている自分の姿はまだ想像しやすいのですが、自分や家族が死んでしまう姿はなかなか想像できません。それは、生きているから。人間は、本能的に「死」のイメージを拒絶するのです。

 

余談ながら、ラテン語の「メメント・モリ」という言葉をご存じでしょうか。これは「死を想え」ということで、生命の対極としての「死」の姿を受け入れないと、生命の意味や尊厳を本当に知ることはできない、というような意味合いです。

 

まあそこまで哲学的でなくても、社会的な意味で考えれば良いのです。自分がいなくなったら、家族はどうなるか。家族がいなくなったら、その先の人生はどうなるか。「死」そのものを考えず、「死=存在の消滅」と考えれば、少しは楽に想像できるでしょう。

 

まずはそれを受け入れる、つまり「知る」ことが大前提であり、そこから、そうならないためにはどうするかという「道」が始まります。その段階で、初めて「死ぬのが怖い」という漠然とした「怖れ」から、一歩を踏み出せるのです。その軸がブレていると、「本当は役に立たない」情報の海に呑み込まれてしまいます。

 

基本的な軸が定まったら、次に「知る」べきは具体的な方法論であり、交通や勉強の方法を考えることと同じです。その方法は、また次回に。

 

 

■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

《再掲載》【防災の心理15】本能を解き放て!(#1378)

私たちは、死にたくない。私たちは、家族の命を守りたい。特に、子供の命は。誰もが持っているはずのそんな気持ちは、どこから来るのでしょうか。それは、人間の「本能」です。生物としてDNAに組み込まれた能力の発露なのです。

 

太古の昔から、弱い生物は群れを成すことで外敵に対抗して来ましたから、仲間と一緒にいること、そして仲間を減らさないことが、すなわち生存の確率を高めたのです。ですから、危機になるほど生存本能が集団への帰属を求め、それが「群集心理」に繋がっています。そしてその最小単位が、家族です。

 

幼い子供や小さなものをかわいいと感じ、守りたくなるのは、種族保存本能です。まだひとりでは生きられない、庇護が必要な幼子を自然に守り育てられるように、そのように感じる感覚が備わっているわけです。それを「母性」と言っても良いでしょう。子供がかわいいから守りたくなるのではなく、弱い存在を守って命を繋ぐため、ひいては種を保存するために、子供をかわいいと感じているということです。もしこの本能が無く、代わりとなる感覚や機能が無かったら、弱い幼子は放置されて、あっと言う間に種が絶滅してしまいます。

 

簡単に生命が失われる状況が恒常的であれば、人間は誰に教えられなくとも、常に本能を発露させ、五感を研ぎ澄ませて安全な場所を探し、逃げ、隠れ、時には戦って、自分や仲間の生命を守ろうとします。しかし、生命の危険に滅多に晒されることの無い現代社会では、そんな本能の「上澄み」だけが、強く現れていると言うことができるでしょう。

 

「生き残る」ための本能の「上澄み」だけで暮らせるのは、平和の証です。平和のおかげで「生き残る」ためのスキルが必要無いに越したことはないものの、しかし我々には、そのための能力が実は備わっているのです。それは、自らの本能で生命に関わる危険を見つけ出し、基本的にはそこから逃げる能力です。さらに、高度な知性を身につけた人間は、情報の蓄積から危険を予測し、事前に回避することもできるのです。

 

では、私たちが本来持ち合わせている、本能による危険回避能力を最大限に発揮するためには、何を拠り所にしたら良いのでしょうか。

 

それは、「怖い」という感覚です。

 

生命に危険を及ぼすかもしれない存在に対しては、私たちの生存本能や種族保存本能が「怖い」と感じさせます。これは特に説明の必要は無いでしょう。しかし「怖い」と感じるものでも、それが実際に生命を奪うことが滅多に無い現代社会では、大抵は「怖い」だけで終わりであり、具体的な対処をする必要があまりありません。ですから、それを考え、学ぶことを忘れかけています。

 

多くの生命を奪う大災害は誰でも怖いのですが、一体何が怖いのでしょうか。例えば巨大地震に遭っても、広い野原の真ん中にいたら安全です。では、何があったら怖いか。落ちて来るもの倒れて来るもの燃えるもの爆発するもの毒があるもの襲って来るもの。そして、危険の接近を気付かせない暗闇など、あなたや家族を「殺す」、怖いものは何でしょうか。

 

まず、あなたの本能が叫ぶ「怖さ」を、ひとつひとつ感じ、向き合うのです。死ぬのが怖い、ではだめです。何故死ぬのかを考えるのです。でもその作業は、具体的な死のイメージをしなければなりませんから、大抵は大きな苦痛を伴います。「そうあって欲しくない」という、これも本能の叫びが理性的な考えを妨害し、それが心理的な苦痛となって現れます。そして前記事で述べた「自分は大丈夫」、「そんなことあるわけない」、「なんとかなる」というような「確証バイアス」や「楽観バイアス」が頭をもたげます。場合によっては、肉体的にも影響が出てしまうかもしれません。

 

そこで考えを止めるか、それを乗り越えるのかは、それぞれの考えや状況によるでしょう。しかし「怖い」ことが絵空事ではなく、現実に起きていることである以上、それがあなたや家族の身に起きないとは、誰にも言えません。そこに、向き合えるかどうかです。

 

「臆病」になってください。それは恥ずかしいことではありませんし、いつもびくびくしながら生きることではありません。危険を素早く察知し、そこから「すばしこく」離れる能力のことです。管理人は、自信を持って言えます。「私は臆病だ」と。「臆病」は、弱い生物である人間が本能的に身につけた、「生き残る」ための感覚です。その感覚を能動的に研ぎ澄ますことができた時、「本当に役に立つ」情報は、自然にあなたの周りに集まって来ます。いや、あなたが引き寄せると言っても良いでしょう。

 

それが、結果的に情報を「選択する」ということなのです。まず、本能的に怖いことを直視し、具体的な対処を知りたいという「軸」がしっかりしていれば、「本当に役に立つ」情報は、自然に目に入って来ます。もし入って来なかったら、探さずにはいられないでしょう。そして、気づきます。巷には大した情報が無いじゃないかと。でも、あります。仮に無くても、その時は自分で考えるのです。本能の発露に、他人任せという発想はありません。

 

自然災害に関しては、いつもどこかで発生していて、余程大規模でもなければ、報道を見てもあまり恐怖を感じないのが現実でしょう。東日本大震災にしても、多くの人はメディアを通じてあくまで断片的な情報を得ただけで、生命に関わる怖さも限定的です。しかし、現実はとてつもなく「怖い」のです。それを「明日は我が身」と、我がこととして感じられなければなりません。

 

では、情報を「選択する」ためには、「臆病」になれれば良いのでしょうか。実は、外せないもうひとつの条件があります。これがまたメビウスの輪のようなことなのですが、それはまた次回に。

 

 

■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

2019年2月14日 (木)

《再掲載》【防災の心理14】続・東大教授とカリスマ店員(#1377)

前回記事より続きます。本文では「東大教授」を止めておきながら、タイトルにはまだ残すという、このあざとさw

ところで、私たちは何故「肩書き」に依存したくなるのでしょうか。それは前述の通り、その「肩書き」が、引いてはその人の能力が世間に認められているはずで、その裏には自分たちを超える能力と業績が蓄積されているはずだと思うからではないでしょうか。

つまりは「この人の言うことなら間違いない」と思う、そして「思いたい」からでしょう。ここで「思う」のはあなたの理性、「思いたい」のは、あなたの心理の働きです。

似たようなことに、我が国では最近あまり見なくなりましたが、「テレビでお馴染みの」という宣伝文句があります。英語圏だと「as seen on TV」という奴で、あちらではまだ結構現役ですね。これはテレビというメジャーなメディアで堂々と宣伝しているのだから、そこにウソは無いだろう、品質も確かだろう、そして高額のテレビCM料金払って宣伝できるのだから、販売元もしっかりしたところなのだろうというイメージを強調しているわけです。

それがすべてイメージ通りかというとそうでもない事が少なく無いから、そんな宣伝は淘汰されて来たのでしょうし、そもそもテレビ自体が良くウソをつくということを、最近は皆が知ってしまったwテレビに限ったことではないですが。

ともかくも、立派な「肩書き」やメジャーなメディアに登場するという事実は、衆目に晒されることに耐える内容であり、さらにそこに至るまでに多くの人の目や手を経ることで、間違いやウソや不正はスクリーニングされているはず、だから信用しても大丈夫と思いやすいわけです。もしウソでもあれば世間から大バッシングを受けるはずだから、そんなことは無いだろうと。

簡単に言えば「多くの人が認めたはずだから」、信用してもいいだろうと思うわけです。あれ、これは何かと似ていませんか?みんなが行くから、みんなが言うから、みんながやるから・・・赤信号、みんなで渡れば怖くない。

実は「肩書き」やメディア情報への依存は、「群集心理」とほとんど同じことです。我々は「肩書き」やメディアの向こう側に、同じ方向に走る、同じ場所に留まる群集の存在を感じているだけなのです。そこに参加することで、無意識のうちに安心感を得ているわけです。

さて、そうなると困ったことになります。「群集心理」を抜け出すためには「正しいことを知る」ことが必須だというのに、その「知る」ための行動が、実は「群集心理」の影響下にあるという、なんだかメビウスの輪状態です。

そこで必要になって来るのが、「疑う」ということ。肩書きが立派だから、本を出しているから、メディアに良く登場するから信用できるというような発想を捨てることです。ついでに、人気ブログに書いてあったからとかもw

でも実際は、それなりの「肩書き」の方が出す情報には、それほど間違いはありません(中にはとんでもない大ウソもありますが)。頭から否定する必要はそれほど無いのです。しかし、生き残るために「本当に役に立つか」という視点に立つと、巷の防災情報のあまりに多くがピントがずれていたり、単なるトリビアの類だったりします。また、理論的には正しいことでも、実際に使えない情報も多いのです。

例えば、地震が来たら落下物に「気をつけろ」とは誰もが言いますが、気をつけるってなんですか?どういう場所でどんな落下物があり、それがどんなダメージに繋がるので、どのような方法で避けるという部分まで落とし込んでいなければ、「その時」には何の役にも立ちません。当ブログでは、それをやっています。

現実にはそんなレベルの事を言うだけの「専門家」も多いのですが、まず批判はされません。それが「肩書き」の効果なんですね。なにせ本当は役に立たなくても、根本的に間違いで無ければ否定はできませんし。(繰り返しますが、大ウソも少なく無いですよ!)だから、「本当に役に立つ」情報を欲する我々は、疑わなければならないのです。

ちなみに当ブログの内容、良く言われますが、とても細かくなっています。でも管理人は、それが必要だと信じるから、こういうスタイルでやっていますし、おかげ様でそれなりの人気を頂戴しています。これでもし管理人がそれなりの肩書きを持っていたら、メディアからお声がかかるかもしれませんが、防災に関しては何の肩書きも無い(防災士と防火管理者だけじゃあしょうがない)ので、内容がどうであろうと、メディアに登場することは無いでしょう。

何故なら、こんな「素人」をピックアップして、もし何か問題が起きたら、メディア側の責任になりますから。「専門家」ならば、問題があっても主にそちらの責任です。その場合、メディアは「善意の第三者」ですし。もし登場するならば、その時は「文化人枠」ではなく、おもろい素人としてトピック扱いでしょうね。良く、おもろい動画の投稿者がインタビュー受けるような、あのレベル。もちろん、そんな露出をする気は全く無いですけど。それはやっかみではなく、一般的な映像や記事の尺では、管理人が伝えたいことを表現するのは無理だからです。

おっと話が逸れました。ともかくも、巷の防災情報は、まず疑ってください。そして、その中から「本当に役に立つ」情報を選択するのです。では、どうやって選択したら良いのでしょうか。これがまたいろいろな心理が邪魔をする難儀な話なのですが、当ブログの基本的スタンスとして、誰もができる方法は提示しません。元来、そんな方法はありませんし。

そうではなく、本気で「本当に役に立つ」情報を欲されて、あくまで能動的に探されている方へのアドバイスとさせていただきます。詳しくはまた次回に。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

《再掲載》【防災の心理13】東大教授とカリスマ店員(#1376)

今回のタイトルは、一見何の関連も無いふたつの「肩書き」を並べてみました。カリスマ店員が「肩書き」なのかはさておきw、両者は見方によっては良く似ているのです。鋭い方は、管理人が何を言いたいのか、もうおわかりかもしれませんね。

前のテーマでは、「集団心理」について考えました。特に非常時には、人は本能的に集団に依存したくなりますが、状況がある「しきい値」を超えると、集団の中にいることが危険を増幅することになります。ですから、状況によっては「生き残る」ために集団を抜け出さなければなりません。そのために必要なことは、「正しいことを知る」という一点に集約されるということです。

では、その他に依存したくなるものはあるでしょうか。と来れば、もうおわかりですね。それが「肩書き」なのです。「集団心理」依存は主に非常時の危険を招きますが、「肩書き」依存は、主に平常時における危険です。その危険とは、生き残るために「正しいことを知る」のを邪魔するということです。もっとも教授や店員が悪いのではなく、「肩書き」のイメージをことさら煽るメディアなどの問題なのですが。

ここで何故、敢えて「東大」という固有名詞を出したかと言うと、それが最大最強のブランドとして確立「させられている」からです。カリスマ店員ならば、イメージ的には渋谷のセシルナントカの誰々という感じでしょうか。もちろん管理人は、ガールズファッションについてなど何も知りはしません。それでも、そういうイメージを「持たされている」ということが重要なのです。

あるテーマにおいて、東大教授と管理人が違うことを言ったら、皆様はどちらを信用されるでしょうか。答えを待つまでもありません。管理人の完敗です。しかも東大教授は、「間違ったこと」は言わないはずです。であれば、相対的に管理人が間違っていることになる。しかし東大教授とて、すべてにおいて「本当に必要なこと」を言うとは断言できません。

研究の成果ならば、概ね正しいでしょう。管理人も、それを利用させていただいています。しかし何を強調し、指導するかは、それぞれの考えやパーソナリティにもよります。でもメディアにおいては、「東大教授のコメント」というだけで、無条件無検証で金科玉条のごとく流されるわけです。

なんだか東大を目の敵にしているように見えますが、そんなことはありません。ただ、「肩書き」の最も象徴的な存在として、東大を引き合いに出させていただいているだけです。実は東大の方々が、そんなイメージを苦々しく思われていることも多いということも知っていますから、以後はただ「教授」ということにしましょう。まあ実際いろんな「教授」がいますが、それでも「教授」は強力なブランドではあります。

先回りして言わせていただければ、記事タイトルが「教授」よりも「東大教授」の方がより注目を集めるはずという、イメージを利用した打算もあるわけです。イヤですね大人はw


一方、カリスマ店員が「お似合いですよぉ」と勧めてくれれるものならば、大抵の方は気持ちよく買えますよね。センスが良くて、それが世間に認められている人だし、何より「有名人」から直接勧められるという快感があります。世間に認められている人の勧めを受ければ、あなたも世間に認められるスタイルができるのです。それがブランドであり、「肩書き」の効果ということですね。

でもその服、あなたに本当に似合っていますか?いえ、きっと似合っているのでしょう。でもそれは、大抵「最大公約数」的な似合い方ではないでしょうか。もちろんそれで良いのです。ファッションならば。でも、例えばあなたが俳優のオーディションを受けるための服だとしたら、より「個」を際立たせなければなりません。流行りのファッション「だけ」でバリバリに固めただけでは、没個性と見なされて、第一印象は減点かもしれません。もちろん、それを吹っ飛ばす実力があれば良いのですが。

「個」を演出するということは、ちょっと強引にこじつければ、「あなたが生き残る」可能性を高めるということです。あなたが「生き残る」ためには、最大公約数的な情報を纏っているだけでは不十分なことも多いのです。必要なのは、「あなたに最も似合った」スタイルであり、それをもたらす情報です。そして、本当にあなたに似合ったスタイルは、自分の頭で考え、自分の足で探さなければ、なかなか手に入らないのです。

あなたが今何も知らなければ、入り口としては、メディア上で「教授」が出す情報や、カリスマ店員が勧めるような「最大公約数」の情報でも良いでしょう。「教授」を出せば(特に東大!)数字が取れる、カリスマ店員が一番多く売り上げるというのは、つまりはそれらが世間の「最大公約数」にマッチしているからということに他なりませんし、それがメディアやショップの目的でもあります。しかし、それだけでは不十分であると気付かなければなりません。「最大公約数」のまま止まっていたら、それはメディアやショップの「顧客満足度」を上げているだけです。

「教授」は学究の徒(のはず)ですから、科学的、理論的に整合性のあること以外は言いません(と、思いたいw)し、カリスマ店員は「あなたにウチの服は似合わない」とは絶対に言いません。あくまで「最大公約数」で終わりなのですが、災害でもオーディションでも、あなたが「生き残る」ためには、それなりの知識も技術も必要ということです。

次回に続きます。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

2019年2月12日 (火)

《再掲載》【防災の心理12】悪いのは自分だけじゃない!(#1375)

今回は、「群集心理に負けない」方法を考えます。

人は怖いとき、不安な時ほど、誰かと一緒にいたくなり、集団を形成します。それは人間の本能であり、しかも多くの場合、お互いに助け合うことにより、その方が良い結果に結びつきます。しかし、こと巨大災害など、ある「しきい値」を超えた状況になると、集団でいることが「生き残る」確率を下げてしまうことにもなります。その典型が、東日本大震災の津波被害でした。

状況が非常に厳しく、流動的な時点で集団の中にいることのデメリットは、危険の覚知が遅れがちになる、判断を他人に依存しやすくなる、行動の速度が遅くなる、集団と異なる行動をしづらくなる、小さなきっかけでパニック状態に陥り、二次被害が発生しやすいなどが挙げられます。

ですから、基本的にはそれなりの安全が確保できるまで、敢えて集団の中に入らないか、仮に集団の中にいても、意識して「自分の意志で動ける」余地を残しておくことが必要です。

では、そのためには何が必要なのでしょうか。前記事では、突き詰めればそれはたった一つの行動に集約されると述べました。その行動とは、「知る」ということです。

まず大前提として、集団の中にいることの危険を知らなければなりません。例えば東日本大震災での帰宅困難時、駅前などに立錐の余地も無いほど集まった人々の多くは、「みんなといることの安心感」だけを感じていたのではないでしょうか。しかしあの状況は、これまで述べたように、ある意味で危険極まりなかったのです。「たまたま」大きな混乱にならなかった、というだけです。

では、発災直後ではどうでしょうか。当テーマの最初の記事で、押し寄せる津波から避難する際に、集団と別行動を取って九死に一生を得た男性の例を挙げました。その男性は、何故そのような行動を取れたのかを検証してみたいと思います。それは、決して偶然では無かったのです。

その男性は、こう言いました。「みんなと同じ方向に逃げた人は、みんな死んでしまった」と。しかし、この場合は集団だから逃げ切れなかったということではありません。集団が間違った行動をしているのに、それに気付かず集団について行ってしまったことが誤りなのです。

では、なぜ男性は集団と別行動を取れたのでしょうか。実は、津波が来たらここへ逃げるということを、普段から考えていたのです。

過去に何度も津波被害を受けている三陸地方ですから、そのように考えていた人は決して少なく無かったでしょう。しかし実際に巨大な危険が目前に迫った時、恐慌状態に陥った多くの人は、ただ集団について行くことを選んでしまいました。それが「群集心理」の恐怖でもあります。冷静さを失い、多くの人が行く方向だから、それが一番安全に違いないという考えに捕らわれてしまったのです。

しかしその男性は集団から離れ、普段から避難場所と考えていた山の斜面を、藪をかき分けて登りました。もちろんそこは避難場所として設定されてはいないただの山でしたが、その男性は知っていました。津波の遡上速度は走るよりずっと速いから、とにかく最短時間で高い場所に上がらなければならないと。ですから、道が無かろうが藪が深かろうが、とにかく一番近い山に登ったのです。

その際、悲劇の集団はどうしたかというと、海を背にして街の奥の方へ、広い道を進んだのです。進むにつれて海抜が上がりますから、もっと時間があるか、津波の規模が小さければ、逃げ切れる人も多かったでしょう。しかし現実はあまりに過酷でした。

このような場合、集団は「最も簡単な方法」を取ってしまうことが多くなります。冷静さを失うと「ぱっと見で出来そうなこと」に偏りがちです。ですから、集団が最も進みやすい道を行ってしまったと考えられます。そして集団が進んでいるという事実が個々の考えを封殺しがちになり、さらに多くの人を引き寄せるという悪循環に陥るのです。なお、津波に関して言えば、集団が進みやすい方向とは、すなわち津波にとっても進みやすい、つまり最も遡上速度が速くなる方向です。

集団の中には「こっちでは逃げ切れない」と考えていた人もいたはずです。しかし、途中から集団を抜け出して独自の行動を取るには、とてつもない勇気と判断力が必要です。周囲に「絶対安全」と自信が持てる状況が無い以上、集団への依存を振り切って別行動をすれば、自分の判断だけが自分の運命を決めるという、完全に孤立無援の状態になります。それより、語弊を承知で言えば「他人のせい」にしておきたくなるのが、人の心理なのです。何が起きても「自分が悪いんじゃない」と。そして「群集心理」は、そのような依存心を増幅するのです。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というのは、主に集団ならば車の方が停まるという意味ですが、赤信号を無視するという罪悪感を集団が薄め、「悪いのは自分だけじゃない」と開き直りやすいという意味でもあります。

このような心理は、災害に関する根拠の無い予知だの予言だの、エセ科学やオカルトめいたものが衆目を集めることにも繋がるのですが、それは別稿で触れることにします。

ともかくも、件の男性は集団と別行動を取って生き残りました。それは、普段から「こうなったらこうする」という、確固たる考えがあったからです。だから集団の行動が誤りであると瞬時に判断し、そこから抜け出すことができたのです。と言うより、抜け出さずにはいられなかったでしょう。そして、それを可能にしたのは、正しいことを「知っていた」という事に尽きます。

ただ、正しいことを「知る」ということは、そう簡単なことではありません。巷に溢れる情報を、ただ受動的に眺めているだけでは、ほぼ不可能です。当ブログでいつも触れているように、「本当は役に立たない」情報ほど目につきやすく、興味も惹きやすいのです。あくまで能動的に「本当に役に立つ」情報を選択し、災害時には「何が起こる、その時はこうする」という様に、体系的に整理しておかなければ、いざという時には役に立ちません。役に立たないということは、「生き残れない」ということです。

あるアンケートによれば、災害対策用に用意しているものの筆頭は、懐中電灯だそうです。その後に水、食品などが続きます。懐中電灯(LEDライト)は管理人も重視していますし、水も食品も必要です。

でも、敢えて言いましょう。過去の災害で、懐中電灯があったから生き残れたという話、聞いたことありますか?災害後、我が国だけでなく、インドネシアでもハイチでもチリでも中国でもアフガニスタンでもトルコでもその他でも、大災害後に赤ちゃんひとりでも餓死したという話、聞いたことありますか?

それは全く無かったということではありません。災害後に、脱水症や栄養不良が原因で潰えた命もあります。しかし、レアケースなのです。それ以前に、まず「災害の第一撃」を生き残らなければなりません。

大災害に遭遇すると、誰でも冷静な判断がしづらくなります。そして災害が巨大なほど、事態が緊急を要するほど「群衆心理」が頭をもたげ、誤った行動に繋がりやすくなるだけでなく、自ら危険に近付いてしまいやすくなります。

しかしそこに危険があるならば、自らの意志で集団から抜け出して、より「正しい」行動をしなければなりません。それを唯一可能にするのが、正しいことを「知る」ということなのです。

「本当は役に立たない」情報ばかり気にしていたら、その帰結を負うのは、あなた自身です。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

《再掲載》【防災の心理11】パニックはどこからでもやってくる(#1374)

前回記事では、往年の名ギャグ「赤信号、みんなで渡れば怖くない」を例に引き、大抵の場合はそれで大丈夫だと述べました。しかし、状況がある「しきい値」を超えると、「みんな」でいることが危険を増幅することもあり得るとも。

具体的にどういうことかというと、大人数で赤信号を渡っていれば、平時ならば大抵の車は止まります。もし、よそ見している車が突っ込んで来たとしても、被害を受けるのは運悪く車が突っ込んで来る方向にいた一部です。つまり集団の端にいさえしなければ、少なくとも自分はほとんど被害を受けません。大抵の自然災害も、そういうレベルで収まるわけです。

でも、突っ込んで来たのがダンプカーだったら、しかも運転手は酒に酔っていて、パトカーに追われて正気を失い、アクセルべた踏みで突っ込んで来たとしたら。このようなことが「しきい値」を大きく超えた、滅多に起きない巨大災害ということであり、東日本大震災はそういうレベルだったのです。危険地帯にいたら、何もしなければごく僥倖に恵まれる以外に生き残る途は無く、行動してもそれが誤りや不十分だったら、結果はあまり変わらなかったのです。

もしそこで一人でいたならば、ダンプカーの動きを見極め、ほんの数歩移動して直撃さえ避けられれば無事でいられます。しかし集団の中にいたとしたら、まず危険の覚知が遅れがちになる、移動しようとしても周囲の人並みに阻まれる、他の人の動きや転倒などに巻き込まれるなどの阻害要因がある上、それ以前の段階で集団の中にいるという安心感がありますから、危険を覚知しても緊急避難モードへの移行が遅れがちになり、「みんなと一緒だからなんとかなる」という思考停止に陥りやすく、行動開始自体が遅れるでしょう。さらに他の人が恐慌状態に陥ったりすれば、それが伝染して冷静な判断がより難しくなります。高密度の集団ほど、恐慌状態が伝染、拡散しやすいのです。

ここで言う「しきい値」とは、集団に対して思考停止や恐慌を招く強度の不安や恐怖が与えられ、統制の取れた行動ができなくなるレベルのことです。注意しなければならないのは、それは決して災害など状況の重大さに限らないということです。巨大災害時に集団パニックが起こりやすいのは、ある意味で当然予想がつきます。しかし高密度の集団では、実際に危険が無くても、例えば誰かひとりが上げた悲鳴から集団パニック状態に発展することもあるのです。特に災害直後で不安心理が強い場合は、その可能性が高くなります。

そうであれば、発災直後の緊急避難時や、危険がまだ完全に去っていないうちに高密度の集団の中にいることは、避けるべきであると考えなければなりません。

繰り返しますが、大抵の場合は集団の中にいても大丈夫なのです。ですから、とりあえず皆と同じように動けというような経験則も生まれます。しかし状況が「しきい値」を超えると、集団は凶器にもなります。そして、その「しきい値」がどこにあるかは様々な状況に左右され、最終的には「実際に起きてみないとわからない」のです。それでもあなたは、災害時にただ集団の中にいたいですか?

とはいえ前述の通り、不安な時ほど集団の中にいたくなる心理は、人間の本能でもあります。ですから、それと異なる行動をするためには、不安を乗り越えて集団に依存したくなる気持ちを振り切る必要があります。それも発災直後の緊急避難時には、強い恐怖と不安の中で、ほとんど瞬間的に「独立思考」しなければなりません。それは、口で言うほど簡単なことでは無いのです。

管理人が考えるに、それを可能にする要素はただ一つです。そのためには様々な事前準備が必要ですが、突き詰めればたった一つに集約されます。それが具体的にどういうことなのか、東日本大震災における実例を元に、次回考えてみたいと思います。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

2019年1月30日 (水)

【管理人ひとりごと】問題だらけの避難所運営(#1373)

今回は大した内容はありません。単に愚痴みたいな管理人ひとりごとですw

現場は問題だらけ


最近、当ブログ読者の防災士さんといろいろお話をしています。その方は地域の避難所運営計画に参画されていて、イザという時のために、具体的な情報を求められています。

ですから、管理人も知る限りの情報をお伝えしていますが、その方はおっしゃいます。
「こういうのをブログ記事にしてはどうか?」と。

でも、できないんですよね。というか、管理人にその気が無いんです。

なぜなら、とてもセンシティブな問題が多いので。想像してください。普段はほとんど関わりが無いような、あらゆるクラスタの人々が一カ所に押し込められるような状況を。

地方ならば、比較的「ご近所さん」の比率が高くなりますが、それでも現場では問題が多発しています。

都市型災害の避難問題が事実上最初にむき出しになったと言えるのが1995年の阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)であり、その経験則から様々な対策や備えが進んではいますが、根本的な解決はありません。

避難所などにおける『人間』の本質的な問題は、あまりにセンシティブなので公式に共有されることはほとんどなく、『避難所運営の手引き』みたいなものにも書いてないのです。

しかし、現場では問題が次々に起こる。それに対処しているのは、現場の人間の努力と創意工夫なのです。管理人も実際に対処した方々のお話をいろいろ伺っていますが、そりゃもう無理難題が山積みです。

いわゆる『避難所運営』という本来の仕事ではない問題があまりに多くて、しかも「んなアホな!」と言いたくなるようなことも多くて、本当に頭が下がります。


不可避な問題


無茶な問題は別にして、管理人がとても気にしていることがひとつ。

管理人在住の街には、イスラム教圏の方が結構多いのです。そういう方々は、戒律により食べられないものがあります。ハラル食品でなければなりません。豚肉などそのものだけでなく、エキスが入っていてもダメ。

そうです。炊き出しの定番、豚汁やポークカレーがすでにダメなんですよ。ビーフカレーなら大丈夫かというと、カレールーに禁忌品が含まれているかもですよ。どうします?支援してくれる方々も、そこまではなかなか考えも物資も回らないでしょう。

加工食品の支援があっても、戒律で禁止された食物やエキスが含まれているかどうか、いちいち分類できますか?ダメなら食うなと放置できますか?平時ではないのです。平時だって簡単じゃないけど。

イスラム教に限らず、宗教や習慣による禁忌はいろいろありますが、ただでさえ不足する物資の中で、果たして対応できるのか。三度のメシという、生きるために最も根本的で重要な問題です。

この先、我が国は外国人がさらに多くなる流れです。世間では仕事の面ばかり取り沙汰されますが、みんな『生活』があるのです。日常生活はともかく、巨大災害時のことは、どれだけ考えられているのでしょうか。


とまあ、今回は思いついたことを徒然と書かせていただきました。


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2019年1月26日 (土)

《再掲載》【防災の心理10】赤信号、みんなで渡っても・・・(#1372)

当シリーズの前回記事で、今回はどんな心理について考えるのか、大体おわかりいただけたのではないかと思います。つまりは、人は危機に陥った時ほど誰かと一緒にいたい、誰かに道筋を示して欲しい、誰かに依存したいという心理です。

それを心理学的にどう呼ぶのかは不勉強にして明らかではありませんが、一般的には「群集心理」と呼ばれるものに近いものでしょう。もちろんそれは、危機でなくても生活のあらゆる面で顔を出します。

かつて「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というギャグが流行りましたが、あれこそが群集心理を端的に表したものでしょう。この場合は逆もまた真なりで、怖い時ほどみんなで集まりたくなるわけです。「怖いから、みんなで渡ろう赤信号」ということです。

このような心理は、人間の本能に根ざすものです。太古の昔から、個体単位で自衛の手段を持たない弱い動物は、群れになることで危機に対抗して来ました。それに由来することですから、その心理自体は消しようがありません。言うなれば、とても「人間らしい」気持ちでもあります。

弱い動物の動物の群れの中で、補食動物に最初に狙われるのは、群れから離れた個体です。群れの動きについて行けなかったり、はぐれたりした個体から食われて行きます。だから群れを追い、離れないようにすることが、本能的に安心感をもたらします。

その一方で、大きな群れは統制が効かなくなりやすいのです。例えば補食動物に追われた群れが川に向かって突進し、折り重なるように飛び込むことで、泳げる動物でさえ大量に溺死するというようなことも起きます。これが、避難行動中に恐慌状態となった集団が本来の危機回避能力を失うという、本来の意味での「パニック」です。

しかし、自然界では弱い個体である人類は、知性の獲得によって集団の利点を積極的に生かす方法も編み出しました。選抜された強い個体が集団になることで、補食動物や巨大な動物など「敵」の脅威に対抗できるだけでなく、それらを倒してたくさんの食糧を手に入れられるようになりました。さらに、強い集団が仲間の弱い集団を護るという機能を持ったのです。「軍」の誕生です。

これは余談ですが、我々は本能的に強い集団や個体を見分ける能力も持っています。極端に言えば、避難行動中に「防災の専門家」と「屈強な自衛隊員」に出会ったら、どちらについて行きたくなるかというようなことです。それは自衛隊員は、民間人より体力も判断力も優れているはずだという理屈を超えて、主に本能的な判断ということができるでしょう。だから、管理人の理想は「屈強な防災の専門家」なのですがw


さておき、残念ながら災害からの緊急避難時には、そんな頼れる「強い集団」に出会えないのが普通です。そうなると、いきおい「数の多い集団」に依存しがちになります。多くの人が集まっている=多くの人が安全だと考えている、という風に感じるでしょうが、それは前述の通りまさに本能的な感覚です。

そしてその感覚は、「結果的に」正しいことが多いのです。大集団にあまねく危機を及ぼすような大混乱、つまり巨大災害は滅多に起きません。ですから、集団の中に入った時点で、経験的にも「これで大丈夫」という思考停止に陥りがちになります。しかし、状況がある「しきい値」を超えた時、集団の中にいることが、すなわち危険を増幅することになります。

例えば、東日本大震災時の都心部で、駅前に立錐の余地が無いほど人が集まった時に、もう一度あの震度5強が来たとして、そこにいるあなたがいたとしたら、絶対に無事でいられたと思いますか?

周囲のビルからガラスや壁材が降り注ぎ、広い場所に逃げようとしても動けず、一方で建物の中に逃げようとする人波が衝突して人のなだれが起き、自分が動かないでいても無闇に逃げようとする人に突き飛ばされ、踏みつけられる、そしてそんな恐慌が加速度的に拡大して行くという、大パニックが起こる可能性は十分にあったのです。あくまで、「たまたま」それが起きなかったというだけで。

仮に、あなたがそこで起こり得る危険を正確に知っていたとしても、統制の無い集団の中にいると、行動の自由度が著しく制限されます。自分の思った通りの行動などできないと考えなければなりません。

大集団にあまねく危機を及ぼすような巨大災害は滅多に起きないのは確かですが、たった三年前に、我々はそんな巨大災害を目の当たりにしたのです。いや、本当に目の当たりにしたのでしょうか?被災地の方々が見た、経験した本当の恐怖が、被災地以外の我々にどれだけ伝わっているのでしょうか?

想定される首都直下型地震や南海トラフ地震が巨大規模で発生したら、前記のような「最悪の状況」が、各地で多発する可能性が非常に高いと言わざるを得ません。それらの想定被災地での人口、市街、産業等の集積度は、東北地方の比では無いということを忘れてはなりません。

主に東北地方に巨大被害をもたらした東日本大震災からの教訓を十分に検証・分析せずして、さらに重大な被害が予想される、いわゆる「太平洋ベルト地帯」における巨大災害への対策など絵空事だと言っても過言ではないと、管理人は考えます。水だ乾パンだと言っている場合ではないのです。

次回は、震災被災地で起きたことを検証しながら、「群集心理の壁」を乗り越える方法を考えます。


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《再掲載》【防災の心理09】誰もひとりでは生きられないけれど・・・(#1371)

今回から、新しいテーマについて考えます。

前回までは、個人が災害対策を進める上で最大の壁と言っても過言では無い「正常化バイアス」、「楽観バイアス」について考えました。これは効果的な災害対策の大前提となる、災害時に自分の身に降りかかるであろう危険の想定を甘くし、対策の焦点をぼかしてしまうことにつながります。「本当に必要なこと」から、目を逸らさせてしまうのです。

今回からは、管理人が「その次の壁」と考える心理です。これは実際に災害などの緊急事態に陥った時に、顕著に現れるものです。

東日本大震災で、ある海沿いの街を大津波が襲いました。その時にはまだ多くの人が低地に残っていて、津波に追われるように一斉に避難を始めました。しかし、その街では200人以上が犠牲になってしまいました。低地にいて生き残った人は、ほんのわずかだったのです。

その中で九死に一生を得た一人、60代の男性は、後にこう証言しました。
「みんなが行く方向に逃げた人は、みんな死んでしまった」と。その男性は、逃げまどう人々が次々に津波に呑まれて行くのを、逃げた場所からすべて見ていたのです。

ではなぜ、この街で多くの犠牲が出て、その中でこの男性は生き残れたのでしょうか。先に申し上げておけば、その理由はひとつではありません。様々な要因の積み重ねの結果ではありますが、そこにある心理と、それに対処する方法が大きく影響していたのは疑いありません。


震災の日、東京都内では公共交通機関がほとんど止まり、大量の帰宅困難者が出ました。その時、大きな駅前などにはどんどん人が集まり、激しい混雑となりました。ではなぜ、人が集まったのでしょうか。交通機関が動き出したら、できるだけ早く乗りたいから?それもあるでしょう。でも、最大の理由は「そこに人が集まっていたから」ではないですか?


2001年9月11日、米国で発生した同時多発テロの時は、旅客機が突入したWTCビルから、退路を断たれた多くの人が飛び降りるという、あまりにも悲惨な状況になりました。そこでは多くが誰かと手を繋いで、時には何人もの人が手を繋いで、生還の見込みの無いジャンプをしたのです。

この時はすぐ背後に致命的な危険が迫っているという、その場にいたら生き残れる可能性がゼロという究極の状況だったのですが、そこで人々は「死のジャンプ」へ向けて、なぜ手を繋いだのでしょうか。


ここに挙げたようなことに繋がる心理が、大災害からの緊急避難時には、結果的に「壁」となることがあるのです。それは誰もが持っている普通の気持ちですすが、それが生き残れる可能性を狭めるならば、乗り越えなければなりません。

そんな心理と、それを乗り越える方法について考えます。


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2019年1月24日 (木)

《再掲載》【防災の心理08】楽観戦隊ダイジョブジャー!(#1370)

おバカなタイトルをつけてみましたw

今回は、「心理の壁」とヒーローの関係について考えます。当シリーズの冒頭で、三人の「ある男」の行動を挙げ、どれが一番「ヒーロー度」が高いと感じるかお聞きしました。

一般的には、登場前の状況が厳しいほど、そして冒した危険が大きいほど、「ヒーロー度」が高く感じるということにはご同意いただけるのではないかと思います。

ところで、世間にはなぜこれほどヒーローもののコンテンツが多いのでしょうか。その答えは、面白いから。見ていて理屈抜きにスカっとするからではないでしょうか。

小さな子供の頃から熱中してしまうことを考えると、どうやら我々は「本能的に」ヒーローが好きなようです。そんなカタルシスを得られるという意味では、あの「倍返し」の人や水戸黄門もヒーローの範疇ですね。

では、ヒーローがやる事とは?これはもう簡単。普通の人なら解決できない危機や問題を、快刀乱麻を断つが如くバッサバッサと解決するわけです。その亜流には、すごく弱いキャラクターが悩み、苦しみながら最後には勝つなんていうパターンもありますが、とにかくも危機を解決してくれます。

そして我々は思うのです。ウルトラマンが、仮面ライダーが、水戸黄門が(管理人はそういう世代なものでw)いてくれたら悪ははびこらずこの世は安泰、そんなヒーローが本当にいてくれたらなあと。そして、自分がそんな力をもっていたらいいのになあと。

そんな願望を起こさせるヒーローがやっていることを一言で表すとしたら、どうなるでしょうか。もうバレているかもしれませんが、それこそが「正常化」ということです。ねじ曲がり、歪んだ状態を、我々が本能的に望む「正常な状態」に戻してくれるわけです。ヒーローへの願望は、「正常化」への願望とイコールと言っても過言ではありません。

そう考えると、我々の心の中の「正常化」を望む願望は、かなり強いと思いませんか?本当にヒーローがいてくれれば、何が起きても大丈夫だと「楽観」できるのです。これが創作の世界でなくても、例えば職場に頼れる上司がいたしたら、問題が起きても「あの人の指示に従えば大丈夫」と思いたかったりしませんか?

それくらい、我々の「ヒーロー=正常化」への願望は、ごく普通の気持ちだったりします。

翻って災害時の行動シミュレーションですが、その想定は平和な日常を覆す、ねじ曲がり、歪んだ状態です。しかもそこで起きるのは、テレビを観るように傍観できない、あなたや大切な人に、実際に降りかかる生命の危機です。できることなら、それが現実に起きるとは認めたくありません。つまり、強い精神的ストレスが加えられるのです。

そんな状態では、無意識のうちに「ウルトラマン助けて!」という気持ちが起きるのは、ある意味で当然のこと。その気持ちが、「正常化バイアス」となるのです。なお、バイアスとは「偏向」の意味で、本来ある方向から曲がってしまうことです。

言うなれば、起きて欲しくない状況を前に、あなたの心の中のヒーローに、無意識に助けを求めてしまうのです。その結果、「起きて欲しくない事→起きない」というバイアスがかかり、現実に起きる可能性が高い困難を排除してしまい、ある意味で「楽な」シミュレーションになりがちになるわけです。

現実にはあまり役に立たないような災害トリビアが興味を惹きがちなのも同じことで、そこに「これを知っていればもう大丈夫」というような、わかりやすい「正常化ヒーロー」を無意識に求めてしまう結果と言うことができるでしょう。しかし、残念ながらそれで済まないのが現実なのです。

ではどうするか。何もあなたの中のヒーローを消去せよとは言いません。ヒーローの存在は、心の支えでもあります。大切なことは、あなたを助けてくれるヒーローは、なぜヒーローたり得るのか、どうやって危機を救ってくれるのか、そのためには何を考え、備えているのかをひとつひとつ考えて真似することです。

SFだと超人的な能力で片づいてしまいますが、生身のヒーローは、裏では(時には表でも)考え、悩み、苦しんだ結果、意を決して行動することで、解決策を導き出しているのです。

自分の「こうであって欲しい」という願望を意識して抑え、現実には何が起こるか、むしろ起こって欲しくないことばかりが起きるという前提で考え、備えることが必要です。それは前述の通り本能との格闘であり、ともすれば「楽」な方にバイアスがかかりがちです。でも、そんな「心理の壁」を乗り越えなければなりません。

それができるようになった時、あなたの「生き残る力」は確実に高くなっているはずです。そして、普段からそのような考えと行動ができているあなたは、「その時」に、誰かにとってのヒーロー(ヒロイン)になっているかもしれません。


次回からは、また新しいテーマについて考えます。

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