宮城・震災から8ヶ月の光景【1】
もうひとつ、新シリーズを始めます。
管理人は東日本大震災後、福島県内でボランティア活動に参加し、あの白い防護服が必要な場所など、かなりディープな所へも行きました。福島へ行ったのは様々な理由からですが、埼玉からの行き帰りにかかる時間もそのひとつでした。管理人がボランティアに行くときは、基本的に単独で車中泊の自己完結スタイルですから、時間的な制約からあまり遠方へは行けないのです。
しかし、やはり最も甚大な被害を受けた被災地もこの目で見ておきたい。そういう思いも強く持っていました。その後仙台在住の方と交流ができ、被災地の案内をしていただけることになったので、2011年11月初旬、雪が降る前にと、宮城県の被災地を訪ねました。できれば岩手県にも入りたかったのですが、やはり時間的な制約で、宮城県内の一部のみとなりました。しかし、そこだけでも想像を絶する光景を目の当たりにしたのです。あれから8ヶ月も経っているのに、何故こんなに「そのまま」なのだろうかと。
なお、この被災地訪問は防災士としての調査活動として、行程中は防災士の制服を着用していました。決して物見遊山のつもりは無いのですが、被災地に入って撮影などを行うのは、やはり心苦しいものがありました。防災士の制服が免罪符というわけではありませんが、こちらの意志と目的を現すせめてもの方法です。
管理人が訪問したのは、市街地から瓦礫の撤去がほぼ終わった時期です。それから既に5ヶ月が経過してはいますが、被災地の状況は今でも当時とあまり変わっていません。行程は、釜石市、松島町、東松島市、仙台市、石巻市、女川町の順です。このうち、釜石市と松島町についてはあまり詳細に見ていませんので、今回は割愛させていただきます。
次回より、東松島市の東名(とうな)地区からレポートを始めます。当時からメディアにはあまり乗らない、海沿いに広がる普通の住宅街だった場所です。
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