宮城・震災から8ヶ月の光景【4】
※画像にある赤い線は、その場所での冠水高さを示しています。
■仙台市内
東松島市から、仙台市内に戻って来ました。まず、仙台塩竃港周辺の工場地帯に行ってみます。ここにはキリンビールの工場があり、津波を受けた後の、膨大な数の黄色いビールケースが流れ出す空撮映像を覚えている方も多いでしょう。震災から8ヶ月経った当時、キリンビール工場はすっかり復旧して、普通に操業していました。震災、津波の跡らしいものは、外からは全くわかりません。
しかしその周辺では、時間が止まっていました。夕暮れが近く、辺りがだんだん暗くなって行きます。
広い道路から一本中へ入ると、ガードレールも被災時のままです。
画面奥からの水流が突き抜けた工場。船か巨大な瓦礫が流れて来たのでしょう。水深よりはるかに高い位置まで破壊されています。
8ヶ月経ってもこのような姿の工場やオフィス棟が普通で、明かりが点いている建物はごくわずかでした。中小企業の大半にとってはの8ヶ月は、復旧どころか次の目処を立てるにも短すぎる時間だったのです。他にも画像はあるのですが、ただ破壊された無人の工場を並べるのもどうかと思いますので、次の場所へ向かいます。
次に行ったのは、仙台塩竃港のすぐ南側、若林区荒浜地区です。辺りはすっかり暗くなってしまいました。この荒浜地区は、案内してくれた地元の方に言わせると、「なんでここが住宅街?」というくらい、海岸沿いの堤防の内側が普通に住宅街になっているという、海岸らしさの全く無い場所です。
住宅地からは高い堤防に阻まれて全く海は見えず、知らない人が来たら、海沿いだとは気付かないでしょう。しかしあの日、見えなかった海が、堤防を超えてきたのです。
荒浜地区の海岸沿いにある、仙台市海岸公園センターハウス跡から、市街方面を望む。ここは堤防が決壊し、もっとも激しい水流が突入した場所です。グーグルマップの航空写真で「荒浜小学校」を検索してみてください。近くの堤防の決壊による激しい水流で、辺りの地面が激しく抉り取られているのがわかります。
かつては見渡す限り家が並んでいた場所ですが、何も無くなり、8ヶ月経ってもだれおらず、遠くを走る車のライトしか見えません。画像中央にポツンと見えるのが、荒浜小学校です。ご覧の通り、小学校以外には避難できるような場所は皆無でした。水は、2km以上内陸を走る、仙台東部有料道路の土盛りまで、すべてを押し流しながら到達したのです。
荒浜小学校の校舎。水は二階の床上にまで達したものの、建物自体はほとんど損傷していません。ここの屋上から、避難者がヘリコプターで吊り上げられる映像をご記憶の方も多いでしょう。
隣接する体育館を見ると、当時の水位が良くわかります。
この体育館にいたら、事実上逃げ場は無かったでしょう。水は二階席以上の高さにまで上がったのです。めくれ上がった外板が、それを物語ります。
学校近くの用水路には、学校の施設だったのでしょうか、コンクリート造りの小屋が根こそぎ流され、転がったままです。津波直後は、この用水路も瓦礫で埋まっていたのでしょう。泥だらけになった、遺体発見を示す赤い布が残されたままです。
用水路の水門にある分厚い鉄製の昇降機が、根元からあっさりとへし折られてています。濁流と瓦礫の破壊力がいかに強大か、無言のうちに物語ります。それにのみ込まれて助かったら、それは奇跡としか呼べないでしょう。ここにも、どす黒く変色した赤い旗が残っています。それは、被災地ではごく「普通」の光景なのです。
損傷したままの建物付近から、荒浜小学校方面を望む。この場所は、数百、数千の暮らしがあった場所なのです。でもあの日から8ヶ月も経つのに、明かりひとつ無い暗闇です。そしてこんなに広大な場所なのに、全被災地の何万分の一かでしかないという現実を、実感として理解することなど到底できません。被災地を見ればみるほど、「未曾有」という言葉が、巨大な怪物のように襲い掛かってくるのです。
このあと、閖上(ゆりあげ)地区、名取市から仙台空港まで移動しましたが、海岸と並行する道の両側には、ほとんど明かりがありませんでした。破壊された日常の、あまりの大きさに、ただ戦慄するしかありません。
次は、石巻市へ向かいます。なお、このシリーズの次回の更新まで、少しお時間を頂戴したいと思います。写真とyoutube動画でお送りします。状況は、さらに凄まじいものでした。
※文中、荒浜地区を「宮城野区」としていましたが、「若林区」の誤りでした。本文を訂正しました(2012,4,18)
※「仙台市海岸公園センターハウス」が検索ヒットしないため、本文中の検索ワードを「荒浜小学校」に変更しました(2012,4,18)
■このシリーズは、カテゴリ【被災地関連情報】をクリックしていただくと、まとめてご覧いただけます。
↓ 4/16現在、自然災害系ブログ第1位です。
↓ 4/16現在、地震・災害系ブログ第3位です。
« 首都圏直下型地震を生き残れ!【9】☆買い物編 | トップページ | 吊り天井はやっぱり危険! »
「被災地関連情報」カテゴリの記事
- 大川小の悲劇は我々に何を問うのか(2014.12.04)
- 福島レポート【2013/11/9】その3(2013.11.20)
- 福島レポート【2013/11/9】その2(2013.11.19)
- 福島レポート【2013/11/9】その1(2013.11.17)
- 【大川小からの報告3】宮城・震災から1年8ヶ月【13・最終回】(2013.01.23)
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
実家の取引先がまさに荒浜小のすぐそばにありました。当然ダメでした。躊躇いはありましたが、父が是非とも見ておけというので弟の運転で昨年夏に通りかかりました。
荒浜小の向かい側には住宅地があったのですが、基礎しかない分譲中の墓地のような状態で、そんな中に水道管などが飛び出ていたり、よく見るとお供えの祭壇があったりしました。
砂浜の手前まで行って振り返ると蔵王の山が綺麗に見えました。でも本来は防砂林や住宅地に阻まれて山が見えるはずはないんですよ。
高校の時はよく学校サボってあの辺りの海を見に行きましたので、悲しいとか悔しいとか夏の海が賑やかになるのはいつなんだろうとか、いろんなことを考えてしまいました。
投稿: tnt | 2012年4月17日 (火) 19時23分
>tntさん
仙台のご出身だったのですか。私も暗くなった荒浜の住宅街跡に入りましたが、とにかく何も残っていない。暗闇の中を走ると、本当に分譲地のような感じさえしました。
防砂林もほとんどなぎ倒され、まばらに残るだけです。案内してくれた方に「以前は向こうが見えないくらいに木が密集していた」と言われても、それが想像できないような状態でした。
あの時自分がそこにいて、小学校まで行くことができなかったとしたら、何を思い、どんな運命になったかと思うと、本当にぞっとします。あんなに広くて平坦な場所では、どうしようもありません。その凄まじいまでの理不尽さを、闇の中で感じました。
私が行った日、海はとても荒れていて、消波ブロックに波がうちつける「ドーン」という音が、闇に響いていました。そのたびに、背筋に悪寒が走りました。
ところで、荒浜は宮城野区ではなくて若林区でしたね。本文を訂正しました。
投稿: てば | 2012年4月18日 (水) 09時30分