【南三陸町防災対策庁舎から】宮城・震災から1年8ヶ月【3】
宮城県の南三陸町を訪ねた管理人は、次に市街地のほぼ中央にある町役場跡へ向かいました。そこには、今震災の象徴的な場所のひとつとなってしまった、あの防災対策庁舎があります。
そこで起こった出来事については、特に触れません。なぜなら自らの職務を全うするために、他を救うために人知れず生命を賭した人々は、全被災地にたくさん存在するからです。安易にドラマにしてしまうと、その本質を見失うことにもなりかねません。
ですから管理人は、あくまで津波の規模と威力を自分なりに検証する目的で、防災対策庁舎を訪れました。しかし言うまでも無く、犠牲者に対する敬意と哀悼の念は忘れておりません。
まず、周囲の状況と防災対策庁舎の位置関係を把握していただけるYoutube動画をご覧ください。3分24秒です。
■Youtube動画へはこちらから
防災対策庁舎は、周囲に何も無くなってしまった中に、ぽつんと残されています。正面には祭壇がしつらえられ、たくさんの供物が供えられています。
まずここで感じたのは、建物の規模に対して鉄骨が非常に太いということ。鉄筋コンクリート造りの建物より太いでしょう。建物をすべて呑み込んだ津波と瓦礫の衝突に対しても、基本骨格はまったく損傷していません。瓦礫の衝突によるへこみさえ、ほとんど見られないのです。
外壁は軽量のコンクリートパネルだったようですが、基本骨格には損傷を与えずに、すべて「きれいに」剥ぎ取られています。パネルを支持していた骨格は中空の軽量鉄骨であり、津波を受けて飴のようにねじ曲げられています。
このことから、この防災対策庁舎は、その目的からまず震度7でも倒壊しない耐震強度を与えられ、さらに津波を受けたら外壁が外れ、水流が抜けやすくすることで抵抗を減らして、基本骨格を守る構造になっていたものと思われます。
そして3階建てという高さは、「想定」された津波に対しては十分な高さでした。他の庁舎はみな2階建てでしたが、防災対策庁舎だけが3階建になっています。つまり、大津波を受けても防災拠点として機能する、「最後の砦」になるはずだったのです。しかし、津波は想定を上回ってしまった。
次回は、さらに詳細に見てみます。
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