【忘れられた被災地】宮城・震災から1年8ヶ月【6】
南三陸町を出て、国道398号線で女川町へ向かいます。南三陸町から女川町までの直線距離は約25km。でも実際の走行距離は56kmと倍以上になります。道路はリアス式海岸をなぞるように、ひたすらカーブとアップダウンが続くからです。
美しい海と海岸を横目にドライブやツーリングにもってこいのルートで、道中ツーリングライダーともかなりすれ違いました。しかし訪問時現在も崩落箇所での片側交互通行や落橋による迂回路が何カ所もあり、震災直後にこのルートを啓開した苦労が偲ばれます。
「櫛の歯作戦」というのをご存じの方はいらっしゃるでしょうか。震災直後に各所で寸断した道路を短時間で啓開して支援部隊の通行を可能にしたのは、全国から集結した国土交通省の急派部隊でした。
大型トラックにパワーショベルを積み、前進しながら障害物を除去し、道路を啓開して行きました。その際、最優先とされたのは国道4号線を中心とする山側の主要道から、海沿いの各地域までの道路を確保することでした。
その形があたかも櫛の歯のようであったことから「櫛の歯作戦」と呼ばれたのです。報道では自衛隊、消防、警察の活動ばかり取り上げられますが、それらの部隊が短時間で現場に入れた裏には、その前に国土交通省道路啓開部隊の壮絶な活躍があったことも、ぜひ覚えておいてください。
もっとも、海沿いの国道398号線は優先順位としては後位でしたが、地形的な困難さはより大きかったと想像されます。大型車がすれ違えないような狭い場所も多く、崩落が起きたのは大抵そんな場所なのです。
さておき、南三陸町の中心部を出て、管理人はすぐに車を停めました。
画像は追波湾の反対側から、南三陸町の中心部方向を見たものです。もちろんここも20m近い濁流に襲われていて、堤防はズタズタに破壊されたままです。海沿いまで迫った山裾には、小さな集落が壊滅した跡があちこちにあります。
さらにこの先、入り江の奥にある小さな漁港や集落が壊滅した跡を、何カ所も目の当たりにしました。震災直後、津波で集落が壊滅し、死者や負傷者が出ていても、電気・水道・通信は寸断し、町の中心部へ移動するための車は流され、あっても道路が切れていたことも多かったのです。
支援物資や情報が届く町の中心部までは数kmから十数km以上もあり、水も食料も少なく、さらに寒い中を着のみ着のままの高齢者が歩いて移動するのは、文字通り命がけです。
報道陣は大規模被災地に集中し、だれにも窮状を伝えられない。その後も支援物資は後回しになり、ボランティアも来ない。でも、雨露や寒さをしのぐ家ひとつ残っていない場所も多い。そこでは一体、何が起きていたのでしょうか。
そんなあまりに過酷な現実が、海や川沿いのすべての集落にあったのです。報道された場所だけが被災地なのではありません。そんな場所の被災者は、ため息と共にこう言います。
「ここは、忘れられているからねぇ・・・」
未曾有の超巨大災害だったからという、ある意味で仕方の無い部分もあるにはあります。しかし、このような場所にこそ優先的に支援や輸送の手をさしのべなければならないという、大きな教訓を残しました。道路が切れていても、ヘリ一機で吊れる量の物資だけで、当面を凌ぐのに十分な場所が多いのです。
別の場所ですが、次のYoutube動画をご覧ください。
■動画へはこちらから
動画をご覧いただけない方のために説明しますと、映っているのは北上川沿いの広大な津波被災地、石巻市の南釜谷崎地区です。撮影車が走る堤防を越えて、画面手前方向から濁流が流れ込みました。ここは田畑の中に集落が点在していた場所で、被災人口は多くはありません。南釜谷崎という地名を、報道で聞かれた方はほとんどいないでしょう。しかし、ここにも過酷な現実がありました。
この場所を示すのに、ひとつの明確なキーワードがあります。実は、あの大川小学校の対岸なのです。あれだけ衆目を集めた場所の間近なのに、ほとんどの人は知らない。それが、報道しか見られない我々の認識だということです。
被災人口がが少なかった、被害が比較的小さかったというだけで、忘れられた被災地の方がむしろはるかに広大だということを、改めて認識すべきではないでしょうか。
そして今でも、そのような場所は多くの支援を必要としています。どうしても復旧・復興は後回しになりがちなのです。遠くにいてもできる具体的な支援は、やはり金銭面が中心になるかと思いますが、復活しはじめた地場産品を買うことも、大きな力になります。
大川小学校の話が出たついでと言っては語弊がありますが、北上川対岸の吉浜小学校の状況をご覧いただきましょう。
画面左方の北上川からあふれた濁流が三階の半ばまで達し、校舎を突き抜けたことがわかります。この場所は、北上川の水面から優に5mはありますから、遡上した津波の巨大さがわかります。大川小学校は、ここから2kmほど上流の対岸です。
石巻市では、学校内で児童生徒の犠牲者が出たのは大川小学校だけでした。ここ吉浜小学校では津波到達前に下校が間に合ったものの、帰宅後に7名の児童が犠牲になりました。
そんな悲劇も、大川小学校という大惨事の前に、報道上は色あせてしまいます。当然のことながら報道とはそういうものであり、現実のごく一部しか伝えることはできないのです。ひとりだとか何十人だとかで、未来ある子供の命が失われた事実に軽重をつけるなど、本来はあってはならないのですが。しかし、報道はインパクト優先です。
このように忘れられた被災地、被災者のことを、いま一度思い起こしてみてください。できることなら現地に出向き、その現実をご覧になってみてください。決して物見遊山ではなく。実際に被災地を走ってみると、その広大さに驚くでしょう。メディアの報道がいかに一面的なものかが良くわかります。もちろん、被災地に出向いてお金を使うことは、大きな復興支援にもになります。
管理人は、敢えて大袈裟にこう言いたい。『日本人なら、特に若い人は、一度は被災地を見ておけ』と。そうしたくでも出来ない方が多いのは承知の上です。でも、できることならちょっと無理しても行ってみて欲しいのです。人が生きる、人が暮らすということの根源的な意味を、強烈に問いかけられるでしょう。現地で感じる様々な感情は、何一つ無駄なものはないはずです。
静まり返った中で、吉浜小学校の大時計は今もあの瞬間、2時46分を指したまま時を止めています。この校舎に子供たちの姿が戻るのは、いつの日なのでしょうか。
次回は、地理的な順番は実際とは異なりますが、雄勝町を経由して女川町へ入ります。
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