【仙台市荒浜】宮城・震災から1年8ヶ月【10】
今回は、仙台市内の荒浜地区へ再び向かいます。なお、現在この地区は関係者以外立ち入り禁止になっていますので、仙台在住の方に同行していただいています。
仙台市郊外の海沿いに広がる広大な住宅街だった荒浜地区は、堤防を決壊させて突入した大津波にすべて押し流されました。唯一完全な形で残った建物は、荒浜小学校の校舎だけです。
ここは全く平坦な土地なので、安全な避難場所は荒浜小学校の3・4階と屋上しかありませんでした。敷地内の体育館も一階部分が完全に水没しました。そして濁流は2kmほど内陸を走る仙台東部道路の築堤にまで達し、そこまでの間に確実に安全な避難場所はほとんど無かったのです。
訪問時は、すっかり日が暮れていました。昼間はインフラの復旧工事が行われていますが、夜になると大都市のすぐ近くとは思えない、ほとんど無人の暗闇です。この荒浜地区だけでなく、南の仙台空港にまで至る海沿いの地域は、いまだにほとんどすべて無人の暗闇に包まれています。
暗闇の向こうに仙台中心部のまばゆい街明かりが広がっているのが、なんだかとても不思議に思えます。下画像は手持ちでスローシャッターを切ったので、かなりブレているのはご容赦ください。
画像の中心から少し右よりに見える四角いシルエットが、荒浜小学校の校舎です。かつてはここに家並みがあり、こんな風景は見えなかったのです。こんな平坦な場所で津波に襲われる恐怖を、改めて感じました。
広大な暗闇の向こうにきらめく明かりが、人の運命の残酷な差異を際立たせているようでもあります。
次に、荒浜小学校へ向かいました。校舎は、暗闇の中に沈んでいます。被災から1年8ヶ月も経つのに明かり一つない小学校の姿は、外から来た人間にとってはやはり異常な光景です。
しかしこれが被災地のいまの現実だということを、外の人間も忘れてはいけないのです。暗闇に明かりが戻り、子供たちの歓声が再び響くまでのまでの長い道のりを、すこしずつでも支援して行きましょう。
ここで、本文の主旨とは異なりますが、管理人が触れておきたいことを書かせていただきます。
上の画像の中に、ぼんやりとした光がいくつも浮かんでいます。これは空中を漂うホコリにストロボの光が当たって光っているものです。でもオカルト好きの人に言わせると、これは「オーブ」とか言って、霊が写っているとされてしまいます。
しかしこれはあくまでも物理的な現象に過ぎません。管理人はここで三枚の写真を撮っていますが、他の二枚をご覧ください。前がストロボ最小発光、次が中間発光です。
校舎の写り具合を比較してください。最小発光では何も見えず、中間発光ではぼんやりと見えて、光の粒が写り始めています。そして最初に掲載したものが、最大発光というわけです。もちろん、撮影後に一切の加工はしていません。
これが自ら発光する霊の姿だと言うのなら、ストロボの発光量など関係なく写るでしょう。発光量に比例して写りこんで来るということが、これがただのホコリであるということの何よりの証明です。写真に詳しい人間には常識なんですけどね。
なぜこんなことをわざわざ書いたかというと、多くの犠牲者が出た場所だからこそ、霊が写ったとかいう次元で騒いで欲しくないからです。
被災地で管理人はいつも、手を合わせてから厳粛な気持ちで撮影します。その写真をオカルトネタにはされたくない。それに惨劇の地で霊が写ったとか騒ぐことは、犠牲者に対してあまりに失礼ではないですか。それもただのホコリを。
しかし、いわゆる「霊感」とは無縁の管理人も死者の霊魂の存在は信じたいと思いますし、だからこそ心から冥福を祈ります。ただし根拠の無い興味本位の見方だけは、根本から否定します。
こう言うと、「じゃあ写真を載せなければいい」というお約束のツッコミが来るわけですが、暗闇に沈んだ荒浜小学校の姿は、この震災の悲惨さを象徴するもののひとつとして、ぜひ皆様にも見ていただきたかったからです。
多くの方が亡くなった場所、しかも静まり返った暗闇の中に立っていると、胸にこみ上げて来るものがありました。怖いとかいう感覚はありません。ただ悔しく、やりきれないのです。
荒浜の近くを車で走っている時、一匹のキツネが道路を横切って行きました。キツネがいそうな山ははるか遠くです。なんでこんな場所にいるんだと驚きましたが、今の荒浜はほとんど無人で、野鳥の楽園のようになっています。
人がいなくて餌があるから、野生動物も来るのでしょう。でも大都市郊外でも「来られてしまう」ということに、被災後ずっと、ほとんど無人に近い被災地の現実があります。
一匹のキツネの姿が、その現実を浮き彫りにしたようでした。
次回から2回に渡って石巻市の大川小学校での実地検証をお送りし、このシリーズを終わります。
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コメント
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以前も書いた気がしますが、昨年夏には防砂林の辺りまでは行けましたが、今はダメなんですね…去年行った時には貞山堀の橋もガタガタでしたし、路面も陥没してました。私は釣りはやらないんですが、高校の時に父に連れられてあの堀で魚を釣りに行ったのを覚えてます。あの時は小さな船がたくさん繋留してたんですけどね。あの船たちはどうなっただろう…
もう少し北に行くと七北田川の河口があって、その近くの蒲生というところに高校の時の彼女の家がありました。農家をやってたようですが、無事逃げ切って元気でやってくれてるといいんですが。
もっと北に行くとコンビナートや倉庫地帯があります。7年ほど前塩釜から荒浜まで仕事で客先を訪問する時によく通過してました。サボりがてら倉庫の大きなシャッターを見ながらタラタラと広い道路を走ったりしました。
さらに行くとYouTubeで津波の動画がよく流れてたジャスコ多賀城店があります。あの隣にあったユニクロでフリースのトレーナーを買いました。ユニクロそのものは嫌いなんですが、津波に飲まれていくのは耐えられませんでした。
何だか取り留めない感傷話ですが、現地の人たちにとっては「今まさにそこにある苦難」なんですよね。手伝いには一度も行けてませんが、「まず復興」を謳ってくれた自民党の後押しをすべく、微力ながらお客さんのところで啓蒙活動に励んでます。土建屋さん、宝石屋さん、ドーナツ屋さん、中華料理屋さん、印刷屋さん、レコード流通屋さん、不動産屋さんなどなど、みんな応援してくれてるようになりました。
無事に国のトップも入れ替わりましたので、これからもマスコミの偏向を跳ね除けるべく、遠回りですが支援していきたいです。
マクロの話?で恐縮です…
投稿: tnt | 2012年12月19日 (水) 21時27分
>tntさん
外から行った人間と、その土地に原体験を持つ方の感じ方には絶対超えられない壁みたいなものがあります。知っている街、見慣れた街が無くなってしまった時人はどう思うのか。いくら想像しても、片鱗さえもわからない気がします。
それにしても、家々の土台だけが残る広大な暗闇、その向こうに見える街の明かり。これは一体なんなんだ?これは現実なのか?という、言いようのない戸惑いや憤りを感じます。
今回、一年前に比べてかなり復旧作業に手が付けられているのを感じましたけど、さらに加速して欲しいですね。政治が動かないことにはどうにもなりません。期待したいと思います。
ところで、荒浜地区への主要入り口には「関係者以外立ち入り禁止」の看板があり、昼間はガードマンが立っていますが、夜間は閉鎖されているわけではありません。それに、細い道はノーチェックではあります。なんてこと書いていいのかな(笑)
投稿: てば | 2012年12月20日 (木) 22時53分