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2013年1月 8日 (火)

【大川小からの報告1】宮城・震災から1年8ヶ月【11】

当シリーズ最終記事となる「大川小からの報告」を、これから三回に渡ってお送りします。最終回には、動画もアップします。

本文に入る前に、まずこの記事の主旨についておことわりしておきます。管理人は、この悲劇に関わるいかなる人々に対しても、責任の追求または擁護などすることを目的としていません。この記事の目的はあくまでも、あの時の条件下においてどれだけの判断や行動が可能だったのかを現地に立って自分なりに検証し、その結果を報告させていただくものです。

場合によっては、ご遺族や関係者様の感情にそぐわなかったり、責任問題の方向性と異なる部分があるかもしれません。しかし、最大の目的はあのような悲劇を繰り返さないために現場から学ぶことであり、他意は全くありません。そのような前提でお読みいただきたいと思います。なお、管理人が現地を訪問したのは、2012年10月12日です。では、本文です。


宮城県石巻市の大川小学校は、追波(おっぱ)湾に注ぐ北上川河口から約5kmほど遡った川沿いに位置しています。この辺りから河口までの北上川は川幅も非常に広いゆったりとした流れで、川というよりはリアス式の湾のほとりにいるような印象を受けます。
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上画像は河口から約3km地点から上流方向を見たものです。画面奥にかすかに見えるのが新北上大橋で、その左岸に大川小学校があります。

大川小学校の近くでは新北上大橋が北上川を渡っており、そのたもとは橋の高さに合わせて堤防が高くなっています。水面からは優に5m以上はあるでしょう。そこが、避難者の隊列が目指した「三角地帯」です。
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上画像は「三角地帯」から大川小を見下ろしたもので、これだけ高低差があります。二階の屋根の高さとほぼ同じ高さくらいです。校舎手前の校庭からここまで、道沿いに歩いて約200m。ジョギング程度に走れば、1分半もあれば着くほど近い場所です。

川は画面左側の堤防の裏で、水面の高さは校舎の地面とほぼ同じ。海は画面奥方向の約5km先です。もちろんここから海は全く見えません。それどころか、この三角地帯からも、北上川の水面はほとんど見えません。
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この場所からでも意識して河口方向を見ていなかったら、津波が遡上して来るのは気付かなかったでしょう。しかもここから1mでも下に降りたら、川は堤防の陰で全く見えなくなります。なお、堤防の手前の水面は富士川という小河川で、こちらには堤防がありません。最終的に河口付近で北上川に合流します。あの時は、背後の山の上から津波の遡上を発見した人が小学校に危険を知らせようとしたそうですが、その情報は届きませんでした。

地震発生から約50分後、津波の接近を全く察知できていなかった教職員と子供たちの、そして近隣の避難者の隊列は、校庭から三角地帯を目指して移動を始めました。しかし隊列がまだ低地にいる時に、津波は三角地帯を超えて、前方から襲いかかったのです。
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上画像は、校庭付近から三角地帯を見たものです。橋の左側、信号が立っている辺りが三角地帯です。津波襲来時はあの信号柱がなぎ倒されており、それほどの水流がこの場所を超えたということがわかります。津波前はここにも家並みがあってこれほど見通しは良くなかったはずですが、三角地帯は同じように見えたと思われます。

そこにいた皆が、三角地帯を超えてなだれ落ちてくる真っ黒な濁流を目の当たりにしたのです。海は右後方です。しかし濁流は堤防を超えて前方から流れ込んで来たのだといいます。ほぼ同時に、濁流は右後方の堤防の低い部分も超えて来たそうです。

目の前100mもない三角地帯を超えて、そして背後からも突然襲いかかる濁流。数秒で足下に水が来たでしょう。逃げる時間はほとんど無かったはずです。最終的に、この場所は小学校の二階の屋根がほとんど水没する5m近い濁流に覆われ、鉄筋コンクリート造りの小学校を除き、周囲のすべての家は跡形も無く流されました。近くの山の斜面に最大水位の印が残されていますが、濁流はさらに山の斜面を10m近くまで遡上したそうです。
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校舎二階屋根のひさしに瓦礫がぶつかった跡があります。その高さまで水没したのです。

そして、児童76名と教職員11名が死亡または行方不明という凄惨な結果となりました。隊列の後方にいた児童のひとりは、津波を見て後方の山に向かって走り、押し流されながらも這い上がって助かったそうです。しかしそれも奇跡的なことであり、現場に立ってわかることは、濁流を見てからでは、安全な場所に逃げ切れる可能性はほとんど無かったということです。もちろん、自分がそこにいたとしても。


実際に惨劇の場所に立つと、言葉では表現できない重苦しい感情にとらわれます。現場ではまず最初に、校門跡にしつらえらえた祭壇に献花をして、祈りを捧げました。
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完全に破壊された校舎の姿に、こんな巨大な力に為すすべも無く襲われた子供たちの恐怖と無念を感じ、ただ悔しさに歯ぎしりをする思いです。
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それから周辺を歩いて、実際の位置関係や距離を調べ、そして感じます。考えているのは、「もし自分があの時ここにいたら、どのような判断と行動をしたのだろうか」ということです。

この悲劇において、直接的な原因は二つに絞られます。まず、避難開始時間が遅すぎたこと。そして、避難場所も適切でなかったこと。仮にもっと早く三角地帯に到達していても、全員が津波に流されたはずです。あとで動画でご覧いただけますが、三角地帯からさらに高い場所へ避難することは、ほとんど不可能でした。

では、なぜそのような判断になったのでしょうか。次回はあの時の条件と周囲の状況を総合し、「あの時何ができたのか、何ができなかったのか」について検証します。

■このシリーズは、カテゴリ【被災地関連情報】です。

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