【大川小からの報告2】宮城・震災から1年8ヶ月【12】
今回は、大川小の悲劇を取り巻く状況を明らかにし、その時「何ができて、何ができなかったか」を検証します。
まず、過去の津波の状況です。北上川は、1933年(昭和8年)の昭和三陸津波、1960年(昭和35年)のチリ地震津波が遡上した記録があります。しかし両津波の浸水域は河口から最大でも2km程度までで、河口から約5kmの大川小付近では、地上の被害は全くありませんでした。
次に、過去の津波被害を参考にして宮城県・石巻市が作成した震災前の津波ハザードマップにおける評価では、大川小付近での予想津波高さは0~1m。現在の堤防は低い場所でも水面から2m以上の高さがありますから、ハザードマップの評価からはこの場所が浸水する可能性は考えられず、大川小は地域の指定避難所にもなっていました。
仮に津波が堤防を越えても、鉄筋コンクリート造り校舎の2階に上がるか、水面から約5mの高さがある「三角地帯」へ行けば、津波に呑まれる可能性は無いはずでした。このためもあり、大川小が危険になった場合を想定した二次避難場所については、事前に決められていなかったのです。
では、「三角地帯」以外に避難場所はあったのでしょうか。画像を見ればわかりますが、大川小の裏手にはすぐに山が迫っています。一番近い斜面は校庭から約50mほどで、ゆっくり歩いても数十秒で斜面の下に着きました。
上の画像は校庭付近から見た様子、次は三角地から見た様子です。ご覧のように急斜面に深い藪が密生していて、大人でもそれをかき分けながら登るのは困難です。事実上、避難場所には使えません。
もうひとつの場所もありました。学校の敷地の裏手、「三角地帯」とは敷地を挟んで正反対の方向にある斜面です。校庭からは、それでも歩いて2分以内に着きます。
上画像は校庭から見た様子。木の無い斜面の奥に見える杉木立の部分です。次の画像からもわかる通り、深い森ながら藪は薄く、細い道もついているので、登ること自体はそれほど難しくありません。この山は小学校の実習授業で使われたこともあり、教師や子供たちも登った経験があったそうです。できることなら実際に登ってみたかったのですが、立ち入り禁止になっていますし、ご覧のように犠牲者の仮の墓標がしつらえられています。そんな場所へ立ち入ることは、厳に慎まなければなりません。
この山の問題は、急な斜面の土質が泥炭質ですべりやすく、当時は少し雪が降った後で、さらにぬかるんで滑りやすかったということです。しかしこの山なら十分な高さに上がることができ、津波の直撃からは確実に逃れることができます。学校のすぐ裏手に、このような避難場所が存在したのです。
この悲劇の最大の直接的原因は、避難開始が遅すぎたということですが、その理由はつまるところ「二次避難すべきか、するならどこへ行くべきか」という決断がなかなかできなかったということです。では、なぜすぐに決断できなかったのでしょうか。管理者の立場で考えてみました。
まず、ハザードマップの問題。それを全面的に信じれば、二次避難の必要は無いと考えられます。次に、集団の把握と一般避難者の存在。深い山の中で児童の安全を確保し、だれも迷わないように把握し切るのは容易ではありません。しかも一度山に入ってしまえば、児童を迎えに来た父兄への引き渡しもできません。
さらに地域の避難所でもあった大川小には、近隣のお年寄りも集まっていました。お年寄りにぬかるんだ急斜面を登らせることはためらわれます。これは実際に山を見た管理人の感想としても、無理からぬことだと思います。
しかも、雪がちらつくほどの寒さなのです。山に入れば、その中で津波の危険が無くなるまでの数時間以上(実際には24時間以上)を持ちこたえなければなりません。停電していていて明かりもなければ暖もとれず、時間は午後3時過ぎ。間もなく日が落ちて、一気に寒くなります。
これは責任云々ではなく、人間の心理として「できることなら動きたくない」という方向に傾くのは仕方ない状況だったでしょう。そして、そんな場合に人は「楽観バイアス」または「正常化バイアス」と呼ばれる心理状態に陥りやすいのです。つまり、正当な根拠もなく「きっと大丈夫だ」、「大したことはない」と危機を過小評価してしまう心理状態です。管理者がそう思ったかどうかは定かではありませんが、その可能性は高いでしょう。この心理は、知識を持った防災の専門家でさえ、意識していないと簡単に陥るものなのです。
しかし、地震の大きさから「ここにいては危険だ」という進言が相次いだそうで、管理者は混乱したでしょう。いくつかの証言を総合すると、その時管理者は事実上思考停止状態に陥ったまま、ただ時間だけが過ぎて行ったようです。もとより、学校管理者は一般避難者に対する避難指示などを行う立場でもありません。制度的にも当然ですし、当初から二次避難自体が想定されていなかったのですが、そこにいる全ての人の運命が、事実上管理者に委ねられたのです。
恐怖で泣き叫び、腰が抜け、吐く子供もいたそうで、全く「想定外」の混乱状況です。そして地震から約50分後、下された決定は、5mほどの高さがある「三角地帯へ避難する」ということでした。結果的にそれも「誤り」ではあったものの、過去の例やハザードマップの情報からすれば、ある意味で「次善の策」としては合理的とも言えます。「想定内」か、それを少し超えるくらいの津波だったら、それでもほとんどが無事だったはずなのです。
しかし、「三角地帯」へ向けて移動を始めた隊列を、正面から津波が襲いました。仮に、その前に「三角地帯」へ着いていたとしても、結果はあまり変わらなかった可能性が高いことは、前述した通りです。むしろ、もっと悪かった可能性さえあります。
このように、何もかも「想定外」の状況だったということができます。震災後、「想定外」という言葉は言い訳のニュアンスでとらえられることが多いのですが、基本的に想定無くして対策もありません。問題は、その想定をどのレベルまでしておくか、そして「想定外」をも想定するオプションが存在するかどうかということなのです。
では、この場合は具体的にどうすれば良かったのでしょうか。結論だけを単純に言えば、「最短時間で裏山に上がるべきだった」ということですが、なぜそれができなかったのか、そこに働いた様々な要素をどう理解し、判断するかという考察なくしては、この悲劇の教訓を後世に生かすことはできません。
つまり、同様のケースに直面した時、私たちはどうすべきなのかというレベルにまで落とし込んで考え、その結果をだれもが出来るように一般化、制度化しておかなければならないのです。責任の追求だけで終わっては、また似たような悲劇が繰り返されることになります。
次回は「どうするべきだったのか」を考え、最終回となります。
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