【一周年記念企画】小説・生き残れ。(仮)【5】
その週末の土曜日。衛は、少し早めに待ち合わせ場所の渋谷駅前に着いた。穏やかに晴れた、12月としては暖かい一日が暮れようとしている。駅前広場に鎮座している緑色の電車は先週の地震でどこか損傷したらしく、白いシートで覆われて、少し角ばった巨大な繭のようになっている。デパートが入った駅ビルも外壁が何箇所か剥げ落ちたようで、足場が組まれて補修工事が行われている。ニュースによると、あの日ここで何人かけが人が出たらしい。
それでも渋谷の街は、いつもの土曜日とそれほど変わらない喧騒に溢れていた。衛はシートに覆われた電車の前にスペースを見つけると、行き交う人波の中に玲奈の姿を探した。今また大きな地震が来たらどうなるんだろうと、ぼんやり考えながらふと腕時計に目を落とすと、ちょうど午後5時25分になるところだった。
あと5分、と思った瞬間、全く意識していなかった左後ろから声をかけられた。
「岩城さん!」
衛は不意を突かれて、びくっと肩をすくめて小さく飛び上がった。慌てて振り返ると、玲奈の華やかな笑顔が衛を見上げていた。最初はシブく決めようと思っていたのに、なんだかひょっとこ踊りみたいな姿を晒してしまった。
「や、やあ…」
「もういらしてたんですね。すいません、お待たせしてしまって」
「いや、今来たところで…」
あまりにも陳腐な台詞しか出て来なくて、衛は自分ながらがっかりする。
今日の玲奈は、ベージュを基調にした少しフレアのかかったワンピースに黒革のハーフコートを羽織り、首の周りには柿色のスカーフをマフラーのようにゆったりと巻いている。意外に渋めのコーディネートだ。化粧も平日よりは控え目で、もっと女性的な、なんというか派手な服装を想像していた衛には意外とも言えるスタイルだった。でも、衛はコーヒーブラウンのジャケットとベージュのチノパン姿にグリーンのモッズコートを羽織っていたから、ふたりのバランスは悪く無い。
衛は、いきなりどうかなと思いながらも、先程のみっともなさを帳消しにしようという考えもあって、思ったことをそのまま言葉にした。
「三崎さん、すごくきれいです。最高です」
玲奈は、はっとしたように大きな目を見開いて衛を見つめると、その頬にみるみる赤みが差した。
「え、あ、そんな…褒めすぎです…」
「本心ですって」
「あ…ありがとうございます…」
玲奈は頬を赤らめたまま、恥ずかしそうにうつむいた。
あの地下鉄の中で見せた鋭さからは想像もつかないような、なんだか小動物を思わせるような可憐な反応に、衛はできることなら今ここで玲奈を抱きしめたい衝動に駆られる。でもその気持ちをかなり苦労して抑えながら、言った。
「じゃあ、行きましょうか。お店、予約してあります」
「はい」
ふたりで肩を並べて歩き出しながら、衛は一昨日の電話で食事の約束をした後、玲奈が食べられないものが無いかをひそひそ声で確かめた時の事を思い出した。そう言えばあの時、誰か応接ブースの外を通ったような気がする。あれを先輩に聞かれたか。あの会話は、どう考えても得意先が相手ではないよな。まあ、いいか…。
混雑する駅前のスクランブル交差点を渡りながら、衛は左側を歩く玲奈に聞いた。
「でも、本当に居酒屋で良かったのかな?ちょっとおしゃれめな所にしたけど」
すると玲奈は首をひねって衛を見上げながら、にっこりと微笑みながら言った。
「はい、喜んで」
「あ、また出た」
ふたりは声を上げて笑いながら、夕暮れの雑踏に紛れて行った。
その日から、衛と玲奈はお互いの都合がつく週末はいつも、衛自慢の大型四駆車で日帰りのドライブに行ったり映画や芝居を観に行ったりと、あちこち連れ立って出かけるようになった。お互い結構趣味が合うし、衛は玲奈と一緒にいる時間がなにより楽しかった。衛の誘いにいつも乗ってくれる玲奈も、多分そうなのだろう。衛は会うたびに玲奈にのめりこんで行ったが、しかしそこから先へは、なかなか進めなかった。
一度などは“今夜こそ”と思って食事に誘い、そのまま六本木のバーに流れたのはいいが、衛の方が酔いつぶれてしまい、玲奈に朝まで介抱されるという大失態を演じてしまったこともある。それでも玲奈は別れ際、落ち込む衛に向かって笑顔で、
「今度は、どこへ行こうか」
と言ってくれたのが、衛にとって唯一の救いだったのだが。
年が明け、春めいた日が目立って多くなる頃には、年末に起きた地震のことはたまに関連のニュースを聞くくらいで、もうほとんど誰の口の端にも上らなくなっていた。そしてその頃には、ふたりはようやく、お互いを名前で呼び合うようになっていた。
玲奈が衛の想いを受け容れた日、玲奈はぽつりと呟いた。
「衛が地下鉄の中で『大丈夫、おれがついてる』って言ってくれた時から、たぶんこうなる、って思ってた…」
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