駿河湾沖を震源とするマグニチュード8.2の地震によって引き起こされた津波は、静岡県の太平洋沿岸部で、高いところで10メートルの波高を記録したらしい。ラジオから次々に各地の被害状況が流れる。玲奈がいるこの街でも津波は高さ6メートルに達し、海沿いの街はほとんど壊滅した。
高台の津波避難所から見下ろす水が引いた後の街は、古い木造家屋のほとんどが土台から引きちぎられるかその場で半壊していて、所々に濁流と瓦礫の衝突に耐えた頑丈な建物が、いくつか残っているだけだ。そして、あちこちの瓦礫の山の上に漁船や自動車が引っかかっている、およそ現実とは思えない光景だった。
水が引いてから30分近く過ぎたが、まだ大津波警報は解除されていない。引き波で海水面が大きく下がり、遠浅の砂浜が海岸から200m以上も露出している。その沖には、陸地から引き波で流された大量の瓦礫が漂い、その中から幾筋かの黒い煙が立ち上っている。海上でも、燃え続けているのだ。
玲奈と須田は、高台の広場に集まった観光客と地元住民二百人ほどに対して、警報が解除されるまで絶対に低地に降りないように伝えて回っていた。津波は、何回にも渡って押し寄せるのだ。容態が落ち着いた恵子と彼女が助けた少年には、看護師の経験があると申し出た地元の中年女性が寄り添って、怪我の手当てをしている。津波が引いた街の惨状を目の当たりにした人々は、最初はろくに言葉が出ず、泣き崩れる人も少なく無かった。でも今は変わり果てた街を眺めながら、周りの人とあれこれ言い合っている。それは想像もしていなかった凄惨な光景を、なんとか現実のものとして受け容れるための、苦痛に満ちた作業でもあった。
衛は崖際の手すりにもたれて、ぼんやりと瓦礫の街を眺めていた。まだローンが残っている自分の車を失ったことも悔しいが、それよりもあまりに凄まじい自然の力と、その中で繰り広げられた、鍛えられ、強い意思を持った人間たちの極限のドラマを目の前で見せ付けられ、自分があまりに何も知らず、何もできない事に腹が立っていた。
玲奈は
『衛が助けてくれなかったら、ダメだったよ』
とねぎらってくれたが、自分の行動は玲奈の勢いに引きずられたようなものだと思っていたから、ほとんど慰めにもならなかった。何より、玲奈が恵子を濁流の中から引っ張り上げようとしているその時、衛は足がすくんで動けなかったのだ。それが、深い自己嫌悪の念に繋がっていた。
《人を守るって、簡単にできる事じゃないんだな…》
そう思いながらふと瓦礫の街に目をやると、海岸の近く ―すっかり見通しが良くなってしまっていた― に、いくつかの人影が見えた。何人か固まって、どう見ても楽しげな雰囲気だ。手に持ったビデオカメラや携帯電話を、瓦礫の山に向けているようだ。さらに目を凝らすと、津波に耐えた鉄筋コンクリート造りの建物から人影が出てきては、瓦礫の上に打ち上げられた漁船を指差して大騒ぎしている。そしてついには、その前に並んで記念写真を撮りだす者も現れた。
《なんだよ、あいつら…》
衛は恵子の横で様子を見ている玲奈を振り返ると、叫んだ。
「玲奈!あれを見てくれ!」
玲奈はすぐに衛の所に駆け寄って来た。そして遠くで騒いでいる人影を認めると、目を剥いた。
「何やってるのよ!まだ津波が来るのに!」
人影は次第に数が増え、みな海岸へ向かって行く。ここから叫んでも、声が届く距離ではない。
その時だった。海を見ていた若者が叫ぶ。
「第二波、来るっ!」
水平線が再びむくむくと盛り上がり、白い波頭が沸き上がった。何人かの女が悲鳴を上げる。また、あの悪夢を見せ付けられるのか。高台にいる皆には、既にわかっていた。水平線に津波が現れたら、3分もしないうちに海岸に押し寄せる。そして今、海岸にいたら逃げ場はほとんど、無い。
もちろん玲奈にもわかっていた。しかし、言った。
「呼び戻しに行かなくちゃ!」
「ダメだ、間に合わない!」
「あのビルになら、間に合う!」
玲奈は衛がつかんだ腕を振りほどくと、崖の下り口へ向かって駆け出した。
「玲奈ダメだっ、行っちゃダメだぁっ!」
衛は玲奈を追った。行かせたら、終わりだ。しかし、全力で走る玲奈に、追いつかない。
「だれかっ!玲奈を止めてくれぇっ!」
玲奈が崖の下り口に達しようとしたとき、その前にふたつの人影が立ちはだかった。しわがれた大音声が響く。
「行ってはいかぁんっ!」
あの、老夫婦だった。玲奈はふたりの前で、足を滑らせながら止まった。衛が追いついて、後ろから玲奈の両肩を掴む。
老人は顔を真っ赤にして、先ほどまでの穏やかな表情からは想像もできない、まるで仁王のような形相で、それでも感情を押し殺して、静かな口調で言った。
「いいか、聞きなさい。わしはこう見えても、今年八十八になる。昭和二十年の空襲で、わしらの子供も仲間も、みんな失ったんじゃよ。あんたのような勇敢な若い人を、もう死なせるわけにはいかん」
玲奈は身体を硬直させて、目を見開いている。老人は続けた。
「わしは理系の学生じゃったから、兵隊には取られんかった。早くにこいつと一緒になったんじゃが、静岡で空襲に遭ってな、逃げる途中でわしの背中から赤ん坊を落としてしまったんじゃ」
老人の眉間に、苦悩の皺が刻まれた。70年近く前の、しかし未だ癒えない悔恨がにじむ。
「赤ん坊がいない事に気がついた時には周りはもう火の海で、とても戻ることは出来んかった。そうしたら、近所のせがれが、探しに戻ると言うんじゃ。そいつはな、身体が弱くて兵隊に丙種でも受からんかった。今の人にはわからんだろうが、兵隊に行けんということは、それはもう肩身が狭いものでな、そいつは常日頃から、何とかしてお国のために役に立ちたいと言っておった」
老人の言葉に、衛の脳裏に写真で見た空襲後の焼け野原が蘇る。そういえばこの津波跡は、焼け野原にもそっくりじゃないか…。老人は続ける。
「わしらは必死で止めたが、そいつは『任せてください』と言って、戻って行ってしまったんじゃ。そしてそのまま、戻って来んかった…」
老人の表情から険しさが抜け落ち、目に涙が光った。さらに言葉を続ける。
「人間の気持ちや力だけでは、どうにもならん事もあるんじゃよ。それに、あんたのような人が生き残らんかったら、だれが子供たちやわしらのような老いぼれを守ってくれると言うんじゃ・・・」
老人は一旦言葉を切り、硬直したまま聞いている玲奈の目をまっすぐに見つめてから、続けた。
「だから、わかってくれるな。無駄に死んではいかん。この老いぼれからのお願いじゃ」
玲奈の身体が小刻みに震え始めるのが、衛の腕に伝わって来た。すると、それまで黙っていた老人の妻が、穏やかな表情で、孫を諭すように言った。
「あなたはもう十分にやりましたよ。十分すぎるくらいに。それに、あなたにもご家族があるでしょ。そんなに素敵な彼氏さんもいるし。そんな人たちを悲しませてはいけませんよ。あなたは本当に、ええ本当に立派にやりましたよ」
玲奈の身体の震えが大きくなり、見開いたままの目からは、大粒の涙が溢れ出した。そして玲奈の身体から力が抜け、衛の腕をすり抜けて、その場に崩れ落ちるように、ぺたんと座り込んだ。衛は立ったまま、玲奈の震える背中を見つめている。いつもより、ずっと小さく見える。白いTシャツが、泥だらけだ。今、玲奈にかける言葉は何も、思いつかない。
「…わたし…わたし…」
震える声が、唇から漏れる。玲奈は両手で顔を覆うと、声を上げて泣いた。今までずっと張り詰めていた気持ちが途切れ、抑えていた感情が一気に噴き出した。背中を丸めて、苦しそうにしゃくりあげる。衛は玲奈の横にひざまずき、震える玲奈の肩を優しく抱いた。それしか出来なかった。そして、穏やかな表情で見つめる老夫婦に向かって、深く頭を下げた。
その時、津波の第二波が海岸に到達し、第一波より大きな飛沫を空に吹き上げた。数秒後、辺りの空気を震わす轟音が崖を駆け上がって来て、玲奈の苦しげな嗚咽をかき消した。
☆☆ここまで21回に渡って連載して参りました「小説・生き残れ。」、次回はいよいよ最終回です。
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