【一周年記念企画】小説・生き残れ。【20】
恵子と須田が取り付いた屋根が、ゆっくりと崖に近付いて来る。しかし、崖にぶつかって渦を巻く水流に翻弄されて、回転している。どのタイミングが屋根に取り付いたふたりと崖の距離が最短になるのか、衛は難しい判断を迫られた。屋根がさらに近付いて来る。まだ少し遠いか。しかしこのまま待っていたら、屋根の回転のせいでふたりの位置が崖と反対側になってしまう。衛は腹を決めた。
「玲奈!あと少し!」
衛を振り仰いでいた玲奈は、屋根の方角に向き直ると、叫んだ。
「須田さん!離脱準備っ!」
この距離なら、玲奈の声は確実に届いているはずだ。
数秒後、衛が叫んだ。
「今だ!」
玲奈がすかさず叫ぶ。
「離脱っ!いまーっ!」
須田は恵子の身体を水に引き込み、仰向けに浮かせた。そして顎の下に手をかけると、恵子を引っ張りながら泳ぎ始めた。玲奈は方向を示すために、叫び続けた。
「須田さん、こっちです、こっちです!恵子、がんばれ!こっちだ!」
漂う瓦礫の影からふたりの頭が現れるのを、玲奈は見た
「須田さん!恵子!がんばれっ!あと5メートル!」
須田は必死の形相で泳ぐが、崖近くの渦に阻まれて、なかなか近付かない。ふと、ふたりの姿が、渦の中に消えた。玲奈は息を呑む。嫌だ…ここまで来て、嫌だ…
数秒後、須田の頭が渦の中から飛び出した。だが恵子の姿が見えない。その時、苦痛に歪む須田の口から、野太い、地の底から湧き上がるような叫びが轟いた。
「レンジャァぁぁぁーっ!」
レンジャー教育課程で叩き込まれる叫び。地獄のような状況の中で、苦しい時、怖い時、気持ちが折れそうになった時に、叫べ。叫んで、気合を入れろ。選ばれし者だけが名乗る事を許される、名誉と栄光の称号、レンジャー。おれはレンジャーだ。だから、負けない。須田は目の前の瓦礫を押しのけ、最後の力を振り絞り、水中に沈んだ恵子を引っ張って、ついに崖に取り付いた。
気がつくと、玲奈の周りには衛と数人の若者がいた。衛が連れて下りて来たのだ。すぐに全員で力を合わせて、須田の巨体を斜面に引っ張り上げた。すぐに恵子の頭が水面に現れる。須田の左腕は、しっかりと恵子の腕に絡み付けられている。しかし恵子は、意識が無い。
「恵子っ、わかる!?」
玲奈は恵子の頬を軽く平手で打つが、反応が無い。
「とにかく上へ!」
水から引き上げられて斜面に寝かされた須田は、数秒間激しく咳き込んだものの、すぐに立ち上がった。意識の無い恵子を担ごうとする。玲奈が止めるが、
「大丈夫だ」
の一言で撥ねつけた。鍛え上げられた戦士が、自らの命をかけて他を、それも自分の妻を守り抜こうとする鋼のような意思が溢れている。そしてその意志が、限界を超えさせた…。
恵子を背負った須田を皆で囲むようにして、広場へ上って行く。日陰には、誰かが気を回して、タオルを敷いた寝床が作られていた。須田は恵子をその上に寝かせると、すぐに呼吸と心拍を確認する。顔は真っ白で脈はほとんど触れず、呼吸が止まっている。
須田は玲奈を振り返り、
「CPRを実行する。玲奈、頼む」
と、無表情のままぶっきらぼうにも聞こえる調子で言った。玲奈は恵子の胸の横に膝をつき、大きなタオルを胸の上にかけてから、恵子のブラジャーを外した。そして膝をついて心臓マッサージの体勢を取る。須田は恵子の顎を持ち上げて気道を確保し、マウスツーマウス人口呼吸を準備した。
「現在十二時四十五分 CPR開始」
腕にはめたダイバーウオッチを見ながら、須田は静かに言った。
玲奈は全身の力を込めて、恵子の胸骨の辺りをリズミカルに圧迫する。
「イチ、ニー、サン、シー、ゴー…」
玲奈の額から汗がしたたる。何度も訓練を繰り返した技術だが、本当に生死の境をさまよう人間に対して行うのは初めてだった。しかも恵子は大切な仲間だ。そして、その仲間を失うかどうかは、今自分がやっていることにかかっている。後は無い。玲奈は一押しごとに、生への願いを込めた。
《恵子、負けないで…!》
圧迫が30回をカウントし、玲奈は手を止めた。すぐさま須田が恵子の鼻をつまみ、唇を重ねて肺に息を吹き込む。須田が二回目の息を一杯吹き込んだ時、突然恵子は激しくむせ返りながら、身体を海老のように丸めた。口と鼻から白く濁った大量の水を吐き出す。なおも激しくむせ返りながら水を吐き出す恵子の身体を、須田と玲奈が横向きにして押さえ、回復姿勢をとらせた。
「もう大丈夫だ」
しばらくして、須田は恵子の首筋に指を当てて脈拍を取りながら、玲奈の目を見つめて言った。
「本当に、ありがとう。玲奈のおかげで助か…」
最後は声にならない。須田の目から、涙が溢れ出した。固まり始めた血がべっとりとこびりついた“和製ランボー”須田の顔は、それでも穏やかな、妻の生還を心の底から喜ぶ、ひとりの夫のものだった。須田はまだ朦朧とした意識の底を漂う恵子の手をしっかりと握りながら、歯を食いしばって、泣いた。
どんなに鍛え上げられた人間でも、自分の死に直面して怖くないわけが無い。大切な人の命の危機に直面して、心が乱れないわけが無い。しかしそれを乗り越える唯一の力は、“絶対に生き残る、絶対に助ける”という、愚直なまでの強い意志なのだと、玲奈は改めて思った。涙が、止まらない。ふと顔を上げると、衛と目が合った。衛の目も、真っ赤に泣き腫れていた。
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