【一周年記念企画】小説・生き残れ。【17】
「自分が行きます!」
叫んだのは恵子だった。皆が恵子を見たとき、すでに恵子は崖に向かって駆け出していた。そして濛々を土煙を上げて崖を滑り下り、細い路地を子供に向かって駆けて行く。速い。
高台から皆が、声の限りに叫び出す。
「急げ!」
「がんばれ!」
「早く!」
しかし玲奈は、衛の隣で落ち着いた表情のまま黙っている。
「…間に合うのか?」
衛が言うと、玲奈はちらっと衛を見ただけで、言った。
「彼女なら大丈夫。津波は、あの辺なら時速100キロ、速くても150キロで、これからだんだん遅くなる。海岸に着くまでにあと2分はあるわ。恵子なら、大丈夫」
「ならいいんだけど…なんでそんな事知ってるんだ?」
「自衛隊は災害派遣も仕事です。ちゃんと勉強するのよ」
少しだけ得意気に言った玲奈は、視線は駆けていく恵子に向けたまま、何故か少しおかしそうに微笑みながら続けた。
「彼女、昔なんて呼ばれてたと思う?」
「なんて?」
「女レンジャー」
陸上自衛隊の”レンジャー”とは、能力の高い隊員の中から選抜され、サバイバル技術などの厳しい訓練課程を修了した者だけに与えられるエリートの称号だが、女性隊員にはその門戸は開かれていないという。しかし恵子は隊内でレンジャー並みと評される高い能力を示したというのだ。だから敬意を込めて、“女レンジャー”。
衛は玲奈の表情につられて、つい軽口が出た。
「女ランボーじゃないのか」
「そう呼ぶ人もいたのは確かね」
大当たりだ。
見る間に恵子は少年にたどり着き、その脇にしゃがんで一声かけると、一動作で肩に担ぎ上げた。そしてすぐに今来た路地を駆け戻り始める。少年を担いでも、そのスピードは全く落ちない。高台の上から見下ろすだれもが、これなら十分に間に合いそうだと息を抜いた時、山全体がズシンと震え、背後の崖から小石がぱらぱらと落ちてきた。玲奈はすぐに反応して皆の方を振り返ると、
「余震です!崖から離れて!」
と、叫びながら駆け出した。
玲奈は背後の斜面を少し登った所で恐怖で固まっているカップルに駆け寄ると、ふたりの手を取って広場に下ろした。そしてすぐに老夫婦に駆け寄り、いたわるように背中を押しながら、広場の真ん中へ促した。そうするうちにも揺れはどんどん大きくなり、山がゴーっとうなりを上げた。皆は広場の真ん中に集まってしゃがみ込み、女が悲鳴を上げる。今までで最大の余震だ…周囲をすばやく警戒しながら、玲奈は思った。山が崩れなければいいが…しばらくして、揺れが収まり始めた。もう大丈夫だ…
…恵子!
玲奈は崖に駆け寄って下を見下ろし、息を呑んだ。恵子は路地を塞ぐように倒壊したブロック塀に、下半身を挟まれて倒れていた。子供を守るために、判断がわずかに遅れたのか。横に座り込んだ少年の泣き声が、海からの弱い風に乗ってかすかに聞こえて来る。津波避難所の崖下までの距離は、約150メートル。玲奈はすばやくそう判断した。
その瞬間、海岸に到達した津波の第一波が消波ブロックにぶつかり、高さ10メートルにも達しようかという巨大な飛沫を空中に吹き上げた。数秒遅れて、ドーンという腹に響く大音響が空気を震わせる。今から崖を下りて行っても、津波がここまで押し寄せるまでの間に重傷の恵子と少年をかついで戻る時間はおそらく、無い。
「けいこおぉぉぉーっ! 立てぇぇーっ!」
玲奈は声の限りに叫んだ。怪我を気遣ったり、状況を確認している暇は無い。そう、わたしたちはいつもこうやって、苦しい訓練を一緒に乗り越えて来た。訓練ではどんなに苦しくても、多少ケガをしていても、恵子はいつも大声で『平気っす!』と言い放って立ち上がった…お願い、立って…。
海からの逆風を突いて、玲奈の声が恵子に届いたのかどうかはわからない。しかし恵子は、動き始めた。頭を上げると、こちらに顔を向けて、何か言うように口が動いた。声は聞こえなかったが、玲奈にはわかった。“平気っす”恵子は、いつもの大声では無いが、確かにそう言った。
恵子は両腕で匍匐するようにして、崩れたブロックの下から這い出し始める。歯を食いしばり、表情が歪んでいるのがここからでもわかる。そのままなんとか身体を引っ張り出す事に成功したものの、すぐには立ち上がれない。ごろんと仰向けに転がると、ゆっくりと上体を起こした。
玲奈が叫ぶ。
「津波が到達ーっ!時間が無いっ!」
すると恵子はこちらに背を向けたまま右腕を真上に上げると、空に向かって親指を突きたてた。玲奈の声は届いていた。そして恵子は“大丈夫”とサインを送ってきた。
その時、砂浜を駆け上がった津波が、海岸の家並みを呑み込み始めた。土台から引きちぎられた家が波に押し上げられ、こちらに向かって押し寄せて来る。津波が家並みを引き裂く大音響が聞こえたのか、恵子の動きが少し早くなった。それでも、少しだ。かなりダメージを受けている。玲奈が叫ぶ。
「けぇいこぉぉー、がんばれぇっ!」
それには答えず、恵子は両手を地面につきながら、よろよろと立ち上がった。左足の太ももから、激しく出血している。
津波は陸に到達してその速度を落としたものの、時速数十キロで家を押し流しながら、近づいてくる。恵子は座り込んで泣いている少年によろよろと近づくと、腕を引っ張って立ち上がらせた。そして自分の胸に抱え上げると、こちらへ向かって歩き始めた。
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