【一周年記念企画】小説・生き残れ【18】
倒壊したブロック塀に挟まれ、激しく出血している恵子の左足は、ほとんど体重をかけることができない。よたよたと、今にも倒れそうに、それでも歯を食いしばって足を前に踏み出す。“鬼神の形相”だと、息をのんで見つめている衛は思った。自分の身体など省みず、小さな命を救うために死力を振り絞る、正義の鬼神の姿だ。
崖下まであと50メートル。ついに玲奈が駆け出し、崖を滑り下りた。衛もつられて後に続く。津波がすぐ目前に迫っていることは、もう頭に無い。なんとしてもふたりを助ける、それしか考えていなかった。恵子まであと10mほどに駆け寄ったその時、恵子が進んできた路地の奥に、白い軽自動車が現れた。しかしそれは走って来たのではなく、津波の奔流に押し流されて来たのだという事に、衛はすぐに気付いた。
見る間に路地に瓦礫が押し寄せ、真っ黒な水が一気に水深を増しながら、近づいてくる。真っ黒な水はそれ自体にまるで意思があるかのように、獲物を前にして舌なめずりするかのように、近づいてくる。残された時間は、あと十数秒。
最後の力を振り絞って、恵子はほんの数歩だけ、よたよたと走った。そして駆け寄る玲奈と衛に向かって、手負いの獣が最後の咆哮を上げるように叫んだ。
「うけとれえぇぇっ!」
そして少年をふたりの方に投げ出しながら、そのままうつ伏せに倒れこんだ。
宙を舞った少年の身体を、衛が受け止めた。その場に尻餅をつきそうになったが、なんとか踏ん張った。
「衛、早く上へっ!」
玲奈に言われ、衛は片腕で少年を抱えて階段を、そして崩れた崖を這い登った。
「恵子っ!」
玲奈は倒れた恵子に駆け寄ると、恵子の腕を自分に肩に回して立たせようと
する。しかし力が抜け切った恵子の大きな身体を持ち上げる事ができない。視線の隅に、濁流が迫る。
玲奈は恵子の腕を肩にかけ、空いた右腕でショートパンツのウエストを掴むと、中腰のまま恵子の身体を引きずり始めた。そして石段にたどり着くと、恵子の身体を仰向けに石段にもたせかけ、自分は恵子の頭の上に腰を下すようにした。そして両脇の下に腕を差し込むと、石段に両足を踏ん張って、恵子の身体を一段ずつ引っ張り上げ始めた。
いくら今でも鍛えているとはいえ、体重差が30キロ近くある恵子の身体を引き上げながら、玲奈の身体は軋んだ。しかし、休んでいる時間は全く無い。2メートルほど引き上げた時、真っ黒な水が瓦礫と共に階段の下に押し寄せた。見る間に水かさが増し、恵子の下半身が飲み込まれる。水は山にぶつかって渦を巻き、恵子を押し流そうとする。玲奈がどんなに力を振り絞っても、それ以上引き上げられない。水かさはさらに増して行く。
その時、朦朧としていた意識が戻り、状況を認識した恵子が叫んだ。
「…班長っ、手を離してくださいっ!」
玲奈にもわかっていた。このままここにいたら、せりあがって来る水と瓦礫に飲み込まれる。そうなれば、ふたりとも助かる道は無い。そして自分が助かるためには、恵子を離すしかないと。それでも玲奈は叫んだ。
「バカっ!一緒に帰るんだよっ!」
水かさはさらに増し、玲奈の両腕の力も限界になろうとしていた。一瞬でも力を緩めれば、恵子は瓦礫に飲み込まれる。玲奈は歯を食いしばって、力を込め続けた。
『限界は、超えられる。それを可能にするのは、気持ちの力だ。』
玲奈がまだ陸自に入隊したての頃、教育隊の基礎訓練で音を上げた玲奈に対して、訓練教官の三曹が言った言葉が甦ってくる。
…私はそれを信じて、今までいろいろな苦しい時を乗り超えてきた。1年あとから後輩の恵子も陸自に入隊し、私と同じ隊に配属になってからは、今度は玲奈がその言葉を恵子にかけながら、一緒にがんばったんだ。だから、ここで負けるわけにはいかない…
しかしどんなに気力を振り絞っても、恵子の身体はそれ以上は上がらなかった。水かさはさらに上がり、石段を踏ん張る玲奈の足にまで届き始めた。このままなら、あと1分も持たない。それ以前にも、流されて来る大きな瓦礫に直撃されたら、終わりだ。仰向けになった恵子の胸の上にまで、水が上がってきた。もう、どうしようも無いのか。
その時、玲奈の視界の片隅で、何かが動いた。人影の様だった。それは何か叫びながら、高台の避難所に続く低い木が生い茂った足場の悪い斜面をトラバースしながら、信じられないスピードでこちらに向かってくる。
身長が190センチに迫ろうかという大男だった。身長だけでなく、広い肩幅に分厚い胸、丸太のような腕というプロレスラーのような身体を、黒いランニングシャツとグリーンのバミューダパンツからあふれ出させている。しかしその体躯に似合わず、急斜面の低い木を飛び越え、岩を左右にかわしながら、猿のような軽快さで駆け抜けて来る。玲奈はその男の発する叫び声をはっきり聞き取った時、すべてを理解した。その男は、
「ケイコ!負けるな!」
と叫んでいた。
玲奈は、葉を食いしばって恵子の身体を支えながら、心の中で叫んだ。
《須田一尉!》
恵子の夫で、ふたりの元訓練教官。その後富士教導団のレンジャー課程教官を経て退官した、『和製ランボー』こと須田元一等陸尉が映画のようなタイミングで、とにかく現れた。この場面で、これ以上頼れる人はいない。
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