小説・声無き声 第一部【3】
佐竹と玲奈が車を降りると、犬たちの吠える声がさらに大きくなった。ざっと三十匹はいる。みな尻尾をちぎれんばかりに振り回し、とにかくかまってもらいたくてしょうがないという顔だ。こんな大騒ぎは、お行儀の良い犬ばかりの都市部では見られない。
犬種は、中型の雑種が目立つ。街で良く見るトイプードルやチワワ、ダックスフントなどの小型犬や、ラブラドールなどの種類がすぐわかる犬は数匹だ。玲奈は高校まで過ごした静岡の田舎を思い出し、そう言えば田舎の犬ってみんなこうだったと思い、妙な懐かしさを感じた。しかし、ここにいる犬の偏りが偶然では無いということを、後で知ることになる。
足に絡みついてくる柴の雑種をかまいながら、佐竹が言った。
「ところで三崎さん、犬は大丈夫?」
「は?」
犬猫救援のボランティアに来たのに、なんでそんな?
「いやね、実は結構いるんだわ。大丈夫って言ってたのに、小型犬しか触れねぇ人とか」
「そんな・・・」
「来てくれんのはありがたいんだけどね。まあそれでも仕事はいくらでもあるよ。うんこ集めとか」
佐竹は面白そうに笑った。玲奈は答える。
「もちろん、大抵の犬は大丈夫ですよ。秋田犬とかはちょっと怖いですけど・・・」
それを聞いた佐竹はにやりと笑うと、言った。
「そのうち、そんなのもお目にかかれっぞ」
玲奈の言葉を待たずに、佐竹は続けた。
「この大きなプレハブが犬舎。夕方にはみんなここへ戻す。小さな方が事務所と小動物な。猫舎は別のとこにあるから、後で案内するわ。三崎さんは犬方面でしょ?」
「はい。猫の飼育経験はありませんので」
「あいつらもめんこいよ。じゃ、準備してください。飯食ったら、まず犬に水あげてもらいてぇ。あんまり根詰めずに、のんびりやってくれればいっから」
「わかりました」
それにしても、これだけ犬がいるのに、他に誰もいない。そんなに“不人気”なのだろうか。
玲奈は持参した真っ赤な布ツナギに着替えると、手早く持参の食事を済ませ、黄色いマリンブーツを履いて外へ出た。ベースボールキャップをかぶり直すとき、やっぱり髪を切ってくるんだったと後悔した。それからバケツの水を犬たちに配ったり、スコップで糞を集めたりしたが、これだけ数がいると、何をするのも結構な重労働だ。それに、玲奈が近づくとほとんどの犬がじゃれついて来るから、ついかまってしまって、作業はなかなか進まない。それでも犬好きには幸せな時間には違いなかったし、佐竹も犬をかまいながら、言葉通りに結構のんびりやっている。
一通りの作業を終えると、午後4時近くになっていた。玲奈は、事務所の前で大量の餌を作っている佐竹に次の指示を仰いだ。
「4時半になったら散歩させて、餌食わせて犬舎に戻すから、それまで適当にやってて」
玲奈は体力には自信があったが、それでもこれだけの犬をふたりで散歩させるのはかなり大変そうだと思っていると、敷地に銀色のワゴンが入ってきた。郵便でも宅配でも、誰か現れる度に犬たちは大騒ぎだ。
ワゴンから30代半ばくらいの男女が降りて来ると、佐竹が声をかけた。
「お帰り。どうだった?」
男が荷台から空のケージやポリタンクを下ろしながら答えた。
「ひととおり撒いて来ました。でも、保護はゼロ」
「だべな。今更捕まるような奴はまずいねぇよな」
「結構姿は見るんですけどね。全く近づいて来ない」
「ああ。人や餌に寄って来るような奴はこの二ヶ月でみんな保護済みだ。それに、もうそんな奴らが生きて行ける場所じゃねぇし。牛は?」
「外に出たのは元気にうろついてますよ。でも開いてない牛舎は・・・ひどいもんです」
男の顔が曇った。
「まだ生きてるのもほんの少しいますけど・・・何もできない・・・」
男はうつむいて、唇を噛んだ。佐竹は大きくため息をつくと、一言だけ言った。
「とにかく、お疲れさんでした」
そのやり取りを聞いていた玲奈は、彼らがどこに行って来たのかを考えていた。そして、男が荷台から大きなビニール袋に入れた白いものを取り出すのを見た時、すべてを理解した。それは、震災後の福島関係の報道に必ずと言って良いほど登場する、あの白くて、青いラインが入った防護服だった。つまり、それが必要な場所へ行って来たということだ。
すると、佐竹が玲奈を振り返って言った。
「こちら、埼玉からご夫婦で手伝いに来てくれてる飯田さん…あ、困ったなぁ」
「どうしました?」
「いやね、飯田さんの奥さん、美咲さんなんだわ。ミサキさんがふたり…」
玲奈はすぐに答えた。
「じゃあ、私も名前で、玲奈と呼んでください」
「だら、そうさせてもらいます。飯田さんの奥さんはそのままミサキさん、三崎さんはレイナさんな」
美咲が笑いながら口を挟む。
「なんだか良くわかりませんね」
「まあ、じき慣れるっぺ」
あまり自信のなさそうな佐竹の言葉に、皆が声を上げて笑った。
玲奈は飯田夫妻と簡単に自己紹介を済ませた後、やはり聞かずにはいられなかった。
「あの…どちらへ行って来られたんですか?」
すると、玲奈より頭半分くらい大きな、髪をショートにした美咲があっさりと答えた。
「20キロ圏内ですよ」
「…入れるんですか?」
玲奈に問われると、美咲は車の片付けを始めた夫をちらっと見やりながら言った。
「蛇の道は蛇、って感じかな」
じゃれつく犬をかまいながら、美咲は続けた。
「あそこへ行くにはいろんな意味で覚悟がいるけど、やっぱり放っておけない。今までに何匹も保護したけど、あれから二ヶ月経った今はもうほとんど保護できなくなってるわ。強い個体には野生が蘇って来て、人間には全く近寄らなくなってる」
「そうなんですか…」
「自由に動ける犬猫はまだいい方。牛舎に閉じ込められたままの牛や、《相馬野馬追い》ってお祭りあるでしょ、あれに出る馬とか、海の方は津波でほとんど全滅して、今もそのままの状態。生きてる子も、時間の問題。浪江町とかの牛舎は、とにかく酷すぎて…」
美咲は玲奈と話しながら、その視線は玲奈を突き抜けて、遥か先の警戒区域内を見つめているようだった。その目には、あまりにも理不尽な状況に対する怒りとやりきれなさがない交ぜになった光が宿っていた。震災から二ヶ月。その間どこかに閉じ込められ、餌も水も断たれた動物がどうなるかは、誰にでもわかる。しかしその実情は警戒区域という鉄のカーテンの向こうに隠され、一切表沙汰になることもない。時々入るマスコミのカメラに映し出される光景など、コントロールされたイメージに過ぎない。しかし人間が消え、人間に頼っていた動物だけが残された場所にある現実を表す言葉は、たったふたつしかないのだ。それは「大量死」と「弱肉強食」だ。
玲奈は、福島に来ることを決めた時から、できることならば最前線まで自分の目で見たいと思っていた。断片的な報道の裏にある“本当のこと”を知りたいと思っていた。しかし今、美咲の話を少し聞いただけでも、それがいかに強い覚悟を必要とすることかを思い知らされた。半端な気持ちでやっていいことではない。それに気持ちだけでなく、自分自身にも生物学的な危険を及ぼすかもしれないのだ。
それでも、命を救い、繋ぐために日々リスクを犯している人々がいる。あまりの巨大災害のために、行政による動物保護施策が全く実施できない状態の中、本来は打ち捨てられるしかなかった警戒区域内の命をいくらかでも繋いでいるのは、全国各地から手弁当で集まった動物救援ボランティアの活動だけだ。その活動が崇高かどうかなど意中になく、批判も危険も承知。ただ、命を救いたい。そんな人々の活動によって多くの命が救われ、繋がれている。それは変えようの無い事実だった。
美咲は、玲奈の目をじっと見つめながら言った。
「“中”へ入るのは、無理にお勧めはしないわ。いろいろ、リスクは小さくない。でも、本当のことを見て欲しい、そして伝えて欲しいというというのはあるわね」
玲奈は答えた。
「私も、できれば最前線まで行ってみたいという気持ちはあります」
「そう。チャンスがあるといいわね。でも、すごくショック受けると思うから、そのつもりでね。私も、最初はたいへんだった…」
「はい。覚悟はしています」
その時、佐竹が叫んだ。
「おーい、犬っこの散歩始めっから、手伝ってくれぇ!」
「はーい!」
美咲と一緒に駆け戻りながら、玲奈は“最前線”へ行けるチャンスはすぐ来るのではないか、そんな気がしていた。
■このシリーズは、カテゴリ【ディザスター・エンタテインメント】です。なお、この作品は事実を参考にしたフィクションであり、登場する人物、団体等はすべて架空のものです。
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