小説・声無き声 第一部【10】
■この物語は、事実を参考にしたフィクションです。登場する人物、団体、設定等はすべて架空のものです。
いわゆる"20km圏内”の警戒区域内に入った飯田と玲奈の車は、さらに奥へ向かって農道を進んで行った。当然ながら、点在する農家の庭や田畑に人の姿は全く無いが、それだけならば静かな田園地帯にはよくあることだ。事情を知らなければ、異常事態の地だとは誰も気付かないだろう。
しかし車が進むにつれて、玲奈の目に、次々に異常な光景が飛び込んで来た。地震で倒れた石造りの門柱が全く手つかずで放置されていたり、崩れた路肩では、脱輪して傾いた車が埃をかぶっているのだ。家を良く見ると、雨戸があるのに閉めていなかったり、カーテンさえ開いたままの家も少なくない。そして玲奈が心を痛めたのは、無人の家の軒先に、洗濯物がそのまま残されているのを見た時だった。
そんな光景は、原発事故による緊急避難がいかに大混乱だったかを無言のうちに物語っていた。しばらく家を空けるのに、カーテンを閉めるどころか洗濯物を取り込む余裕さえ無い人もいたのだ。取りあえず身の回りのものだけを纏めて、手配されたバスに乗り込むしかなかったのだろう。その時は、大半の住人は2~3日、せいぜい1週間もすればまた戻れると思っていたという。しかし、そのままこの区域は閉鎖された。それから2ヶ月。ここでは、大混乱の印象がそのまま、あたかも化石のように固まったままだと、玲奈には思えた。だが、"化石”にならないものもあった。残された命だ。
車は田園地帯を抜け、小高い山を超えると、南相馬市小高区の市街に入った。信号も消えた、無人の街並みをゆっくりと進む。ここでは、地震の被害はほとんど見られない。
飯田が言った。
「そろそろ、防護服着ましょうか」
飯田は表通りからは陰となる、スーパーの裏手に車を乗り入れた。そこには色褪せた段ボール箱が、台車に載せられたまま放置されている。飯田の話によれば、警戒区域内は完全に無人ではなく、自衛隊はもちろん地元の消防団が活動しているという。さらに“火事場泥棒”を警戒する警察のパトロールもある。だから、できるだけ目立たないようにするという。そう説明しながら、飯田は最後に皮肉っぽい口調で付け加えた。
「私ら、ここではいろんな意味で“異物”ですから」
車の中で、ふたりはもぞもぞと不自由しながら布ツナギの上に防護服を着た。フードをかぶり、ゴム長靴の上からブーツカバーを履く。さらにカップ型の高性能マスクに、防護ゴーグルをつけた。眼鏡をかけた飯田は、曇るからとゴーグルはつけなかった。五月晴れの日差しの中で不織布製の防護服を着ても、思ったより暑さを感じないのが玲奈には意外だった。自衛隊の分厚い戦闘防護服とは天地の差だ。あれは、夏場だったら30分で脱水症になるような代物なのだ。
準備が整うと、飯田は改めて、車のエアコンが内気循環にセットされていることを確かめてから、車を出した。再び、無人の市街をゆっくりと進む。新築途中の家が、放置されている。コンビニの書棚には、あの日のまま並んだ雑誌が色褪せ始めている。そんな、人間だけが"消えて"しまって、しかし生活の痕跡があちこちに生々しく残ったままの街でこんな姿をしていると、玲奈はいよいよ現実感が薄れて来るのを感じた。
まるでSF映画の役者になって、台本も無くいきなり本番を演じさせられているような気分だ。人の姿が無くても、決してゴーストタウンには見えない。普通に生活していた人々が皆、ある日突然ふっと蒸発してしまった街、そう思えた。しかしSF映画ならばすぐにカットの声がかかるのだが、無人の街は延々と続く。これだけ巨大な"生活"が消えてしまったという現実だと理解することを、玲奈の本能が拒絶しているようだった。
その時、玲奈の視界に動くものが捉えられた。思わず、マスク越しのくぐもった声で叫ぶ。
「あっ!犬!」
茶色い中型犬が、100mくらい先の道路上でこちらを見ている。その身体には、赤いハーネスがついたままだ。初めて目にする放浪犬の姿に、玲奈は色めきたった。何もかもが止まったこの街に動くものが、命がある。長い間なくしていた大切なものが、突然見つかった時のようだ気持ちだ。安堵と懐かしさがない交ぜになり、そして興奮した。
「保護できるかしら・・・」
玲奈の言葉に、飯田は冷静に答えた。
「おそらく、あの子は無理だ」
「なんでですか?」
「身体を横に向けているでしょう?ああいうのはかなり野生化が進んでいて、もう人間には近づきません」
「なんで横向きだと・・・?」
「すぐに逃げられるようにですよ。こちらに興味がある犬は、警戒していても身体をまっすぐに向けるんです。たくさん見てきて、わかりました。あいつらにとって、人間は既に警戒すべき敵でしかない」
その犬は、確かにこちらに対して身体を直角に保ったまま、首を回して車の動きをじっと見つめている。
犬と車との距離が50mほどに縮まると、飯田が言った。
「そろそろ、逃げますよ」
その言葉通り、その犬は突然弾かれたように反対方向に駆け出すと、後ろを振り返ることもないまま、街角に消えた。玲奈は再び、大切なものをなくした時の様に落胆した。飯田が言う。
「まあ、ああいうのはここでも生き抜く術を身につけた“強い個体”だということです。弱肉強食の世界ですから」
玲奈には、返す言葉が無かった。
その後、玲奈は弱肉強食の現実を目の当たりにすることになる。
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