■この物語は、事実を参考にしたフィクションです。登場する人物、団体、設定等はすべて架空のものです。
牛舎を後にしてからも、玲奈の頭の中には牛たちの声が反響し続けているようだった。もちろん全滅した牛舎の中は物音ひとつしなかったのだが、その中から響いて来たように思えた悲しげな声は、まるで自分たちを突然見捨てた人間を責めるかのように、『なぜ?どうして?』と問いかけ続けるのだった。
明るい日差しの中を車で走りながら、玲奈と飯田はずっと無言だった。しばらくして、飯田がぼそりと言った。
「自衛隊だ」
「え?」
「うしろから来ます」
玲奈が振り返ると、深緑色の四輪駆動車が近づいて来るのが見えた。その屋根には、赤色の回転灯が載っている。
「あ、警務隊」
陸自出身の玲奈にはすぐにわかった。自衛隊内部の警察組織である警務隊の車両だ。一般的な軍隊ならば、憲兵隊に当たる。
飯田によれば、警戒区域内では自衛隊があちこちで活動しているので、時々出会うこともあるそうだ。しかし活動中の一般隊員は、飯田たちの姿を見ても特に何も反応しないという。警戒区域内には地元消防団などの自家用車も入っているから、防護服姿ではそんな人たちとほとんど見分けがつかないし、何より一般隊員は、活動中に出会った者を報告せよとの命令も受けていないからだ。
しかし飯田は言った。
「これはちょっとまずいかも・・・」
玲奈は、飯田には自分が陸自出身だとは伝えていなかったなと思いながら、言った。
「警務隊は民間人を取り締まらないと思いますが」
飯田はバックミラーを見ながら答える。
「ええ、わかっています。詳しいんですね。でも、こっち見ながら無線で何か話してます」
それを聞いて、玲奈は緊張した。警務隊は活動中の隊員の支援とパトロールのためにここにいるはずだ。ならば、出会った"不審車両”のことを現地本部に報告するだろう。そして、そこから警察に連絡が行くと考えなければならない。
飯田は続けた。
「この車、所沢ナンバーだし、後ろにはアニマルレスキューのステッカーも貼ってあるし」
確かに、リアウインドウにはかわいらしい肉球をあしらったステッカーが貼ってある。県外ナンバーでそんなステッカーが貼ってあれば、入域許可を受けた地元関係者の車ではないのは明らかで、どんな人種かはすぐにわかるだろう。明らかに"侵入者”だ。飯田が言う。
「とにかく最短距離で出ましょう」
「・・・はい」
深緑色の警務隊車両は、だれもいない住宅街をしばらく銀色のワゴンの後ろについて走った後、信号が消えた交差点を曲がって去った。この後、何が起こるのか。
立入禁止の警戒区域内で警察に見つかった場合はまず退去を命じられ、それに従わなければ検挙されると、福島へ来る前に玲奈は調べてあった。でも実際は退去命令だけでなく、洗いざらい調べられてこってりと油を絞られるだろう。いくら退官しているとはいえ、元自衛官の自分がそんなことになったらどうしよう。もちろん自分自身の覚悟はできていたが、かつての関係者に迷惑がかかったらと思うと、気が気ではなかった。
車は無人の住宅街を抜け、畑の中を走る農道に出た。はるか1kmくらい先に、検問の赤色灯がちらちらと光って見える。その時、飯田がこの場にそぐわないような、のんびりとした口調で言った。
「やっぱり、来たなぁ」
「はい?」
「パトカー」
午後のまばゆい逆光の中で玲奈が目を凝らすと、はるか前方から赤色灯を回したパトカーがこちらに向かって来るのが見えた。飯田が言う。
「検問は県外からの応援部隊で、“中”は福島県警がパトロールしているはずです」
確かに、“中”に入る前に見た検問にいたのは、山口県警や広島県警の車両だった。
「検問の車が“中”に入って来るということは、何か非常事態ということですよ。つまり、俺らだ」
飯田は、なぜか最後には半笑いだった。しかしこのままでは、パトカーと鉢合わせだ。すると飯田は、農道から細いあぜ道に車を右折させながら言った。
「お帰りは、こちら」
「追いつかれちゃうかしら・・・」
「ま、わかりませんね」
相変わらずのんびりした口調だ。
あぜ道をゆっくりと走りながら、飯田は玲奈に訊いた。
「まだ、来てますか?」
玲奈が振り返ると、農道を走るパトカーの赤色灯がさらに近づいている。
「来てます!急ぎましょう!」
すると飯田は、突然強い口調で言った。
「逃げちゃだめだっ!」
どこかのアニメで聞いたような飯田の言葉に、玲奈は突然笑いがこみ上げて来たが、なんとか吹き出すのは堪えた。しばらく不条理な環境にいたせいで、何か感覚がおかしくなっている。人の姿が消えた農村で、白い防護服姿でパトカーから逃げているということに、まるで現実感が無い。本当に、なにかSFの芝居でもしているような気がする。
飯田が真顔で言う。
「私ら、違法行為をしているかもしれませんが、泥棒じゃない」
「そ、そうですね」
「ここで逃げたら、本気で非常線張られますよ。それにこの先は山道で、枝道がいくらでもあります」
「じゃあ、大丈夫かなぁ」
「多分。警察も、本気で追うならサイレン鳴らして全開で来ますよ」
確かに、あぜ道に入ったふたりの車を見ても、パトカーは特に加速するわけでもないようだ。飯田が希望的観測を言った。
「報告があった車と似たのが遠くに見えたから一応確認しとけ、くらいじゃないですかね」
銀色のワゴンは細い山道に入った。これでパトカーの視界から消えたはずだ。それでも飯田はスピードを上げない。問わず語りに、飯田が言った。
「対向車が絶対に無いとは言えないし、路肩が崩れているところもありますから。ここで事故ったら、文字通り一巻の終わり」
そんな落ち着き払った飯田の態度に、玲奈は警察の姿に舞い上がっていた自分が恥ずかしく感じた。覚悟を決めてここへ来たはずなのに。
丘をひとつ越えた車は山道を抜け、開けた農道に出た。すぐ近くに見覚えのある農家が見える。飯田が言った。
「最短時間で出たいので、玲奈さん、力仕事お願いします」
玲奈は飯田の依頼をすぐに理解して答えた。
「わかりました。バリケードですね」
「ええ。ロープはもやい結び。わかりますか?」
「任せてください!」
陸自出身の玲奈にとって、ロープワークは得意技だ。
玲奈は、車が停まるのと同時にドアを開けて飛び出した。手際よく太いロープをほどき、数十キロはありそうな鉄管バリケードをずらすと、すかさず飯田が農家の庭に車を乗り入れた。バリケードとロープを元に戻すと、出口のバリケードへ駆けて行く。もう一度同じ作業を繰り返しながら、玲奈はかつての演習を思い出していた。あの頃の緊張感が、自然と体じゅうに蘇っているようだ。
“外”に出た車に玲奈が飛び乗ると、飯田は今になってかなりのスピードで走り出した。無言のまましばらく走ってからスピードを緩めると、飯田はマスクを外して大きくひとつ、ため息をついた。落ち着いた態度と裏腹に、やはりかなり緊張していたのだ。つられて玲奈も、大きくため息をついた。その時、玲奈は自分の頭に浮かんだ言葉がおかしくなり、ひとりでぷっと小さく吹き出した。
《助かった…》
なんだか自分でも腑に落ちない言葉だったが、どうやら本心のようだ。これがSF映画だったとしても、ここではそんな台詞だろう。
飯田は農道の脇に車を停めると、玲奈を見ながら言った。
「玲奈さん、脱いでください」
「え、脱ぐ?」
「その白装束ですよ」
「あ、ああ・・・」
防護服に身を包んでいることを、すっかり忘れていた。飯田が自分の防護服のフードを外し、ジッパーを下ろしながら笑っている。
「“外”でそんな格好をしていたら、どこにいたか一目瞭然ですって」
なんだか、ものすごく久しぶりに人間の笑顔を見たような気がした。
狭い車内でもぞもぞと防護服をはぎ取ると、マスクやゴーグルと一緒に大きなビニール袋に入れて密閉した。玲奈が飯田に訊く。
「車は・・・掃除しないんですか?」
つい“除染”と言ってしまいそうになったが、言葉を選んだ。しかし飯田は平然と答える。
「時々除染してますよ。まあ、洗車場で高圧洗車と掃除機かけるだけですけど」
もちろん、それでかなりの放射性物質を洗い流せる。
玲奈は防護服を脱いで真っ赤なツナギ服と黄色のゴム長靴姿に戻った。頭の後ろで一本に束ねていた髪をほどく。そして“中”を思い出しながら、目に見えない放射線の恐ろしさを感じていた。短時間では危険なレベルではないとはいえ、原発から10km圏内に入るくらいの、かなりの高線量地域にまで入ったのだ。それでも、放射線のことはあくまで頭で理解しているだけで、当然ながらその存在は全く感じなかった。陸自時代にはもっと分厚い戦闘防護服にゴム製の防毒面という重装備でNBC(核、生物、化学)防護演習を行った経験もあるが、あくまでそれは想定だった。でも、想定と現実の危険が感覚的に全く変わらないということが、却って怖ろしかった。
出発の準備が整うと、飯田が言った。
「腹減りましたね。コンビニ寄って行きましょう」
玲奈には、その言葉が不思議に感じられた。この数時間ずっと無人の街や農村にいて、その光景が強烈に刷り込まれてしまっている。近くでコンビニが開いているということが、どうにも信じられない。
ふたりの車は、警戒区域の中に入る前に見た、検問の近くのコンビニに滑り込んだ。厳重な検問には相変わらず白い防護服姿の警官が10人ほども立ちはだかり、近付く車ににらみを効かせている。きっとこの検問にも“不審な”銀色のワゴンの情報は来ているのだろうが、堂々と“外”の道を走って国道に出てきた来た銀色のワゴンに、警官はだれも注意を払わなかった。コンビニの広い駐車場には、今はもう自衛隊の車両はほとんどおらず、がらんとしている。検問で封鎖された国道の先に続く無人の警戒区域内に、つい先程まで自分たちがいたということが、なんだか遠い記憶のように感じられる。
玲奈の脳裏に、ふと佐竹の言葉が蘇った。
《俺ら、無いことにされてますから》
そう、本当はいないはずの、いてはいけない存在。しかしそんな人々が実は存在し、危険を冒して取り残された動物たちの命を救っているのだ。玲奈は、自分がそんな人々の一員になったことが少し誇らしいような、しかしやはり後ろめたいような、なんとも複雑な気持ちだった。
そんな気持ちを引きずりながらコンビニに入る。商品の棚には空きが目立ったが、それでも見慣れたコンビニだ。若い男性店員が、ごく当たり前に「いらっしゃいませ」と声をかけて来る。玲奈はペットボトルのお茶とおにぎりをふたつ手に取ると、レジに向かった。若い男性店員は、赤いツナギの作業服にゴム長姿の玲奈を見て、福島訛りで言った。
「ボランティアさんですよね。ありがとうございます」
玲奈は、今しがた自分たちがしてきた“逃走劇”が筒抜けになっているような気がして、少ししどろもどろになった。
「え、あ、はい…大したことはできませんが…」
店員が言う。
「いえ、遠くからもたくさんの方が来ていただいて、本当に感謝してます。そこのボランティアセンターに来られているんですか?」
どうやら近くに瓦礫撤去などのボランティア拠点があるらしい。駐車場には、それらしい車や若者たちもいる。
「いえ、そうじゃないんですけど、また近いうちにこちらへ来ます」
玲奈は、思わず自分が言った言葉に、自分で驚いていた。どうやら、私はまたここへ、“中”へ来るつもりらしい。いや、来なければならないと思った。店員は玲奈の言葉を聞いて、丁寧に頭を下げた。
「本当にありがとうございます」
代金を払って店の外へ出ると、飯田が軒下で一足先におにぎりを頬張っていた。玲奈の姿を見て微笑む。玲奈は、コンビニの中で店員と話したことで、少しだけ警戒区域内で感じた非現実感が薄れたような気がしていた。しかし表に出れば目の前は防護服姿の警官が固める検問という非現実的な光景で、警戒区域内での活動を終えた自衛隊の深緑色の車列が、また続々と駐車場に入って来る途中だった。こちらは玲奈にとって懐かしい眺めなのだが、運転席の隊員が白い防護服姿であることが、懐かしさを吹き飛ばした。停止したトラックの荷台からは、防護服姿の隊員が次々に飛び降りて来る。やはりここは、異常事態の地なのだ。そして厳重に封鎖された警戒区域の中は、ほとんど誰も知ることのない、さらに異常な世界だった。しかしそれは、『無いこと』として隠蔽されている。
玲奈は、この数時間に見たことを、ひとつひとつ思い出していた。生活の痕跡を残したまま人間が消えた街、放浪する牛の群れ、野生化して人懐こさが消えた犬猫、まだ人間に寄って来る犬、食い荒らされた死骸、そして牛舎の中で文字通り死屍累々と斃れていた牛たち。玲奈が見たのは、ほんの一部なのだろう。しかし、そこには取り澄ました現代社会の対極とも言うべき、過酷な世界が現出していた。
玲奈は、飯田の隣に立ったままおにぎりを頬張った。でも、あまり味を感じなかった。その代わり、ある日突然失われた、あまりに多くの人々の営みの重さと、飢えと渇きの中で死んでいった動物たちの姿が玲奈に圧し掛かり、また、あの『声無き声』が聞こえたような気がした。玲奈の両目から溢れた涙が頬を伝い、アスファルトの地面に落ちる。玲奈は、心の中でつぶやいた。それは大震災で原発事故が起きたからという理屈を超えて、心の奥底から湧き上って来た言葉だった。
《いったい、なんでこんなことになってしまったの…?》
■このシリーズは、カテゴリ【ディザスター・エンタテインメント】です。