小説・声無き声 第一部【17】
■この物語は、事実を参考にしたフィクションです。登場する人物、団体、設定等はすべて架空のものです。
玲奈は今回、1週間の予定で福島へ来ていた。その2日目には思いもかけず、原発事故によって閉鎖された警戒区域へ行くことができ、その中の過酷な現実を目の当たりにした。そこは完全に人間の手を離れた動物たちの、壮絶な生存競争と累々たる死の世界だった。
玲奈は福島に来る前から最前線を自分の目で見たいと願っていたし、飯田の案内でそれはすぐに実現した。でもそのことが、玲奈の心の中に新たなしこりとなっていた。警戒区域内の想像を超えた現実を目の当りにし、玲奈の中で『なんとかしたい』という気持ちが、どんどん大きくなっている。もちろん、ここで実際にできることは飯田たちがやっているような活動を手伝うことだけだ。足手まといにならないようにするのが精一杯かもしれない。それでも、せめてもう一度"中”へ行きたい、残された命のためにできることをやりたい、そんな思いが募った。
しかし玲奈のそんな思いとは裏腹に、シェルターの日常は穏やかに過ぎて行った。この2日間は特に変わったこともなく、学生ボランティアも二人ほど来ていたので、作業もそれほど多く無い。本当に普通の飼育係になってしまったかのように、犬たちと戯れながら、表向きは幸せな時間が流れて、ふと、犬たちが何故ここにいるのかを忘れそうになってしまう。このまま最終日まで、何事も無く過ぎてしまうのだろうか。
そして玲奈には、もうひとつの思いがあった。自分が福島にやってきて、何か被災地の役に立てたのだろうかという思いだった。もちろん見返りが欲しいわけではないし、芥子粒のような存在に割には、傲慢とも言える考えかもしれない。間接的にどこかで少しは役に立っているのかもしれないが、それがわかる"実感”が欲しい。それは、もしかしたら自分が何も役に立てていないのではないか、自分の行動はただの自己満足なのではないかという、強迫観念にも似た感覚の裏返しなのかもしれない。そう感じてしまうくらい、シェルターでの時間は穏やかに流れているのだ。
四日目には、佐竹と一緒に猫舎にも行った。プレハブ小屋の中は十分に暖房され、ケージの中に二十匹ほどの猫が保護されている。保護されてから生まれた子猫もいる。猫たちが落ち着けるように、普段は人の出入りも最低限にされている。その静かな雰囲気からは、この猫たちのほとんどが、あの警戒区域で保護されて来たのだということを忘れさせる。
福島へ来て、すぐに過酷な警戒区域を見てしまったせいなのだろうか。玲奈はルーティンのボランティア作業にやりがいを感じながらも、心の奥底には何か割り切れないものを感じていた。それはもしかしたら、陸上自衛隊時代に日々訓練を繰り返していた頃に感じた気持ちに近いかもしれない。訓練にはやりがいを感じながらも、"想定”ではない状況への渇望のようなものがあったのは事実だ。それは実戦をしたいというとでなはく、さらに過酷な状況に身を置き、より大きな貢献をしたいという気持ちだったと思う。そんな気持ちは、在職中に数回出動した台風などの災害派遣で、ある部分は満たされたような気がする。
しかし、そんな感覚をボランティア活動と同列に考えるべきことでは無い。それは玲奈にもわかっていたし、それが不満というわけでもない。でも、この福島が置かれたあまりにも過酷な状況が、そう思わせるのかもしれない。その心根はあの頃と同じように、この地のために、ここに生きる人たちのために、そして動物たちのために、もっと自分の身を捧げたいという思いだった。
木曜日の夕方。いつものように飯田夫妻が警戒区域からシェルターに帰って来た。玲奈は"中”の様子を訊きたくて、車の後片づけをしている美咲に歩み寄った。美咲の表情には少し疲れの色が浮かんでいたが、でもその視線は、時々鋭いと感じることがあるほどの光を失ってはいない。そんな美咲によれば、今日も餌と水をあちこちに置いて来たが、保護できた犬猫はいないそうだ。震災から2ヶ月以上が過ぎ、既に人に寄って来るどころか、捕獲器にかかるような個体さえもほとんど残っていないという。そこは強く、賢く、狡猾な個体だけが生き永らえることができる世界なのだ。
そんな話を美咲から聞きながら、玲奈は初対面の日に美咲がそうだったように、自分の視線は美咲を突き抜けて遥か彼方の警戒区域内を見ている、そんな気がしていた。今はもう、玲奈にも“中”が見える。あの日見た生命の極限の輝きと累々たる死の光景は、何もかもがあまりにも鮮明に、玲奈の脳裏に蘇るのだった。
会話が途切れ、美咲が小さくひとつ、息を吐いた。そして顔を上げると、玲奈を見つめながら口を開いた。
「玲奈さん」
「はい」
「あした、行く?」
「え…?」
「あした、私の代わりにもう一度“中”へ行ってみる?」
思いもかけない美咲の言葉だった。玲奈は一瞬躊躇したが、気持ちを包み隠さず言葉にした。
「はい。できるのでしたら、もう一度行かせていただきたいです」
「わかったわ。じゃあ、お願いするわね。夫に伝えておくわ」
「でも、美咲さんはどうされるんですか…?」
問われた美咲は、いたずらっぽく笑いながら答えた。
「たまには、ここのワンちゃんたちと戯れたいのよ」
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