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2014年1月17日 (金)

阪神・淡路大震災から19年

1995年1月17日に発生した、阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)から19年の月日が流れました。あの地震は、現代の大都市が経験した、事実上初めての大地震だったと言えるでしょう。

犠牲者の数は6434人に上りましたが、その約86%が自宅内で死亡するという、ある意味で特異な都市災害でした。これは、発生が午前5時46分という早朝だったこと、震度6強〜7を記録した地域に、耐震強度の低い木造家屋が多かったことが主な要因として考えられます。

都市災害に象徴的な被害のひとつとして、神戸市長田区を中心とする木造家屋密集地域の大火災が挙げられます。当時、幸いにしてあまり風は無かったのですが、乾燥した冬の朝、発災から15分以内だけでも46件の火災が発生し、初期消火の困難、消防能力の超過、電話の不通、渋滞による消防隊の遅滞、人命救助優先の活動方針、停電による断水など様々な要因が重なり、大火災に発展してしまいました。これは、同じような条件の場所が大地震に襲われたら、どこでも発生することです。改めて教訓としなければなりません。

一方で、早朝の発災だったことで、市街地、繁華街、交通機関などでの人的被害は多くありませんでした。これが昼間や夜の早い時間だったら、さらに巨大な被害となっていたでしょう。多くが旧耐震基準建物だったとはいえ、デパートやオフィスビルなど大きな建物の下層、中層階が潰れ、外壁材やガラスが路上にばらまかれたのです。そして電車は脱線し、新幹線の高架も落ちました(新幹線は始発15分前でした)もし満員電車がたくさん走っている時間帯だったらと考えると、ぞっとします。さらに早朝の発生で、帰宅困難者もあまり多くはありませんでした。

それらは幸いなことだったのですが、大都市の地震災害における大きな危険要素がかなり回避されたことで、そこから得られる教訓は多くはありません。ならば、そこで起きたかもしれない被害を想像して、対策を進めなければならないのです。

もちろん、震災復興の課程で被災地の街はずっと「強く」なりました。しかしそれだけでは不十分です。大災害の被害を最も少なくする方法は、ひとりひとりの防災意識に裏付けられた具体的な備えと行動であり、それは行政や他人まかせで実現できるものではありません。

個人の災害対策は、その効果が目に見えることは滅多にありませんが、ほんの少しの意識と対策で「生き残る」力が大きくアップするのは間違いありません。災害報道ではどうしても大きな被害ばかりが取り沙汰されがちですが、その中で、日頃からの備えで危険を回避できた人々が、確実に存在するのです。

あまりに理不尽な大災害の中で、一筋の光明を見いだせるかどうか。その可能性は、ひとりひとりの意識と行動で大きく左右されます。

最後になりましたが、阪神・淡路大震災で犠牲になられた方々のご冥福をお祈りするとともに、心身に傷を負われた皆様に、改めてお見舞いを申し上げます。

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