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2016年3月11日 (金)

あの日から5年。海外から見た311(#1155)

東日本大震災(東北地方太平洋地震)の惨劇から、5年の時が流れました。

この日に寄せて、管理人の非常に個人的な話題にお付き合いいただければ幸いです。


【負い目を感じる日でもあります】

管理人は昔から災害、防災方面にはうるさく、自費で防災士の資格を取得したのは2007年ですし、2010年10月からは、mixiで当ブログの前身でもある防災情報コミュニティを主宰しておりました。

そちらの記事では、地震、津波、火災対策などだけでなく、原発事故における、個人でできる放射線防護対策まで網羅していましたが、それが実際に必要な日が来るとは、正直なところ考えていませんでした。


そしてあの日、東日本を中心として数千万人もの方々が、大抵は初めて経験する激しい地震と、未曾有の巨大津波、そして原発の危機に放り込まれました。

管理人としては、長年に渡って蓄積してきた知識、装備などを最大限に発揮すべき、ある意味で“見せ場”になるはずでした。 しかし、それは叶いませんでした。あの日管理人は、米国のワシントンD.C.にいたのです。ですから、東日本大震災の実体験は何ひとつありません。

管理人が米国にいた理由は、当ブログの中のどこかに書いたと思いますが、ここでは省略します。

なにしろ日本国民として、防災に関わる人間として、大震災の実体験が無いことが、自分の負い目になっています。

その負い目が、震災2ヶ月後から福島の最前線へボランティア活動へ行き、正直に書いてしまうと警戒区域、それも10km圏内まで入るような活動をしたり、宮城県内各地を訪れたり、そして2012年1月から当ブログを始めたりということに繋がっている部分は、確かにあります。
3
ここから先は、凄まじい世界でした

【それは成田から感じていた】
管理人は、2011年3月9日の午後に、成田空港を発ちました。搭乗前、空港で昼食を食べているときに、ゆさゆさという大きな揺れを感じました。直感的に、震度4。

P波はほとんど感じず、振幅の大きなS波です。成田という不慣れな土地で、過去に感じた記憶が無いタイプの揺れでしたので、震源推定はできませんでした。ただ、遠い、大きい、ということはわかりました。最初は、「東海か?」と思ったくらいです。

すぐに震源情報を見ると、宮城のかなり沖の、大きめの地震。震源は、1978年など過去に起きた宮城県沖地震などより、ずっと沖です。そこでそんな地震が起きるパターンは、記憶にありませんでした。しかし、震央の位置も深さも、プレート境界型地震のそれです。

その時、管理人は「あんな場所でこの規模が起きるとは、イヤな感じだな」と、同行者に言っています。それはもちろん、大規模地震の前震である可能性です。 それくらい、“いつもと違う”地震でした。もっとも、あれほどの巨大地震の前兆だとは、想像もしていませんでしたが。

その後、3月10日にごく近隣でもう1回、大きめの地震が起きています。 そして3月11日。前震震源のすぐ南側から、M9.0に達する巨大断層破壊の連鎖が始まったのです。

もしあの時、管理人が国内にいたならば、3月10日の2回目の前震を感じた時点で、「しばらく警戒レベル上げよ」という判断をしていたと思います。


【手も足も出ない】
米国時間の3月11日未明。時差ボケもあった管理人は、ホテルで一杯飲んで、部屋で寝ていました。実は、日本にいる家族から、東北で巨大地震と津波発生のメールが届いていたのですが、気がついたのは午前1時過ぎ、日本時間の午後4時過ぎでした。

すぐにテレビでCNNをつけると、BREAKING NEWS特番をやっており、NHK WORLDのライブ映像や、CNN日本駐在リポーターからの電話リポート、環太平洋地域への津波警報など、日本国内とそれほど違わないくらいの密度の情報が得られました。

遠く離れた米国で、自分の国が未曾有の巨大災害に引き裂かれていくのを、ただ何もできずに見ているだけ。犠牲者数は、その時点で数百人とされていましたが、映像を見て、これは数千、下手をすると数万のレベルになり得ると考えていました。

言うまでもなく、窓の外に広がるワシントンの街は静かです。でも、テレビでは自分の国の巨大災害が、リアルタイムで報じられている。そのあまりのギャップに、管理人はかなり混乱しました。

何度も、窓から街を見ました。わかっていても、静かなことが信じられない。それくらい混乱していたのです。

その晩は、朝までほとんど眠れぬままに、CNNを観ていました。現地時間の3月11日午前5時過ぎ、ワシントンD.C.のホテルで、CNNの画面撮りをした映像をリンクします。約4分です。

CNN Breaking News 11,March,2011

そして、米国の3月11日が明けました。外で会う人々も、特に日本の災害については触れません。もっとも、私が日本人か中国人か韓国人か、ほとんど区別できていないのでしょうが。

それでも、
「どこから来た?」
「日本から」
「大変だな」
「大惨事です」
「おくやみを言うよ」
「ありがとう」
というような会話は、何度かありました。そしてそのたびに、目頭が熱くなりました。

例えばニューオリンズのハリケーン災害の時、日本国内ではどれだけ気にしたでしょうか。米国人に会っても、そんな話題も振らなかったかもしれません。

遠い東洋の島国の大災害を気にかけてくれている人がいるというだけで、かなり感激します。それにしても、当の国民が何もできずに、粛々と旅の予定をこなしているということに、かなり違和感を感じました。

実は、現地で合流した日本人もいたのですが、関西の方で特に被害が無かったこともあり、日本人同士でも震災の話しないという、妙な空気だったのです。


【そして、帰国】
管理人は、3月13日成田着の飛行機で帰国する予定でした。しかし、羽田も成田も閉鎖という情報を得ていました。果たして、予定通り帰れるのか。

とにかく、現地時間の3月12日午前中にホテルを出て、ダレス空港に向かいます。その時点から、日本に関する情報はほとんど得られなくなります。

その段階で、福島第一原発では原子炉の圧力が上昇し、予断を許さない状況であるとの情報がありましたが、結局、帰国まで、それ以上の情報は得られませんでした。

結局、成田空港の閉鎖は解除され、管理人が乗る飛行機がダレスからの再開第一便となるという幸運で、予定通り離陸しました。機内は、ビジネス客よりも、予定通り観光旅行に向かうような、若者や家族連れで混雑しているのは意外でした。

その時点で、原発が危険な状態だという情報はあったのです。米国人は核への恐怖が強いと思っていましたが、意外と脳天気なのかなと。

そして、急遽日本へ取材へ向かう、米国テレビ局のクルーもいて満席です。でも、果たして本当に成田に着陸できるのか、成田からの交通は動いているのか、そして、原発は大丈夫なのか。情報が一切無いまま、約12時間のフライトが始まりました。

機内には日本人はあまりおらず、アジア人は中国人の団体が多かったようです。中国語の新聞を読んでいるので、すぐわかります。

管理人は、英字新聞をもらいました。完全に読解できなくても、日本の地震と津波の記事ですから、ほとんどわかります。これが、機内での唯一の情報源だったのです。 フィナンシャルタイムスの3月12日付け週末版です。

Ft4
『地震とツナミが日本を叩きのめした』という強烈な見出し

Ft3
“でかい奴”が、殺人的な水の壁が

Ft2
右上の小見出し『神戸(阪神・淡路大震災)後初、国家の威信を吹き飛ばす一撃』

Fullsizerender
原発の最新情報は、避難区域が10km圏から20km圏内に拡大されたこと

基本的に穏やかなフライトでしたが、日本に近づくにつれて、機内の緊張が、少し高まったような気がします。12時間の空白を経て、日本は今、どうなっているのか。この先、どこまで行けるのか。本当に、大丈夫なのか。

結局、3月13日は計画停電による鉄道の間引き運転が始まる前日だったので、ほとんど問題なく、夕方には埼玉南部の自宅まで帰り着けました。翌日からはまた大混乱になったと聞いて、胸をなで下ろしたものです。

そしてその足で、ホームセンターへ走りました。ある程度揃えてはいたものの、不足していた家族分の放射線防護装備を買い集めるためです。

実は、米国で原発危機情報を得た時点で、家族に防護装備と非常時の行動について、メールで指示していたのですが、まだ不十分でした。そして、マスコミが騒ぎだした途端に、必要物資が無くなると読んでいたからです。

実際、その時点ではホームセンターのカッパ、ブルーシート、防塵マスク売場などには、誰もいませんでした。しかし原発で水素爆発が起きて、テレビに「専門家」が登場して解説を始めた途端、本当に棚が空になりました。

こういうことからも、事前に正しい情報を知っていることがいかに大切か、改めて痛感させられました。


【希有な体験でした】

海外在住ならともかく、たまたま海外に行っていた時に、自分の国が巨大災害に襲われる。しかも、世界最悪レベルの原発事故が進んでいる国に舞い戻るという、なんとも珍しい体験をしたのが、管理人の311だったのです。

そして、あのリアルを自分で体感していないという負い目が、今やっていることに繋がっているのは、間違いありません。

震災から5年。復興が進む一方で、「なんでこうなっちゃったかな?」と感じることも多々あります。管理人は、自分ができる分野で、そういったおかしな事と、これからも戦って行こうと考えております。

非常に個人的な話にお付き合いいただき、ありがとうございました。


■当記事は、カテゴリ【日記・コラム】です。


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コメント

私もあの日海外にいました。
「原発が爆発した」「大津波で町が消えた」「海が燃えている」等地元の人が言っていましたが、私の英語能力が低いのと海外でよくある過剰表現だと思っていました。
ネットで見ても「映画?」としか思えない程現実味が湧かなかったです。
あれから5年、非常持ち出しとEDCはもとより防災学習館や避難訓練付きコンサート、地元消防団に参加しています。

>コメント主様

コメントありがとうございます。初めて同じような方のお話を伺えました。

海外で見る自国の惨状、凄まじいものでしたね。あの、手も足も出ない感じ、一生忘れられそうにありません。

私の場合、いきなりCNNのライブ映像からでした。まさにパニック映画かCGかという映像で、それが今起きている現実だと認識するのに、だいぶ時間がかかりました。

当ブログの前身で、2010年に津波シミュレーションストーリーを書いたのですが、その時自分でイメージした「最悪の状況」を、軽く超える現実を突きつけられました。

こんなことが本当に起こるのか、いや、起きているんだと。

私もあれ以来、いろいろと災害対策を強化してきました。このブログも、あの体験あってこそなのです。

今後ともよろしくお願いします。

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