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2019年2月

2019年2月14日 (木)

《再掲載》【防災の心理14】続・東大教授とカリスマ店員(#1377)

前回記事より続きます。本文では「東大教授」を止めておきながら、タイトルにはまだ残すという、このあざとさw

ところで、私たちは何故「肩書き」に依存したくなるのでしょうか。それは前述の通り、その「肩書き」が、引いてはその人の能力が世間に認められているはずで、その裏には自分たちを超える能力と業績が蓄積されているはずだと思うからではないでしょうか。

つまりは「この人の言うことなら間違いない」と思う、そして「思いたい」からでしょう。ここで「思う」のはあなたの理性、「思いたい」のは、あなたの心理の働きです。

似たようなことに、我が国では最近あまり見なくなりましたが、「テレビでお馴染みの」という宣伝文句があります。英語圏だと「as seen on TV」という奴で、あちらではまだ結構現役ですね。これはテレビというメジャーなメディアで堂々と宣伝しているのだから、そこにウソは無いだろう、品質も確かだろう、そして高額のテレビCM料金払って宣伝できるのだから、販売元もしっかりしたところなのだろうというイメージを強調しているわけです。

それがすべてイメージ通りかというとそうでもない事が少なく無いから、そんな宣伝は淘汰されて来たのでしょうし、そもそもテレビ自体が良くウソをつくということを、最近は皆が知ってしまったwテレビに限ったことではないですが。

ともかくも、立派な「肩書き」やメジャーなメディアに登場するという事実は、衆目に晒されることに耐える内容であり、さらにそこに至るまでに多くの人の目や手を経ることで、間違いやウソや不正はスクリーニングされているはず、だから信用しても大丈夫と思いやすいわけです。もしウソでもあれば世間から大バッシングを受けるはずだから、そんなことは無いだろうと。

簡単に言えば「多くの人が認めたはずだから」、信用してもいいだろうと思うわけです。あれ、これは何かと似ていませんか?みんなが行くから、みんなが言うから、みんながやるから・・・赤信号、みんなで渡れば怖くない。

実は「肩書き」やメディア情報への依存は、「群集心理」とほとんど同じことです。我々は「肩書き」やメディアの向こう側に、同じ方向に走る、同じ場所に留まる群集の存在を感じているだけなのです。そこに参加することで、無意識のうちに安心感を得ているわけです。

さて、そうなると困ったことになります。「群集心理」を抜け出すためには「正しいことを知る」ことが必須だというのに、その「知る」ための行動が、実は「群集心理」の影響下にあるという、なんだかメビウスの輪状態です。

そこで必要になって来るのが、「疑う」ということ。肩書きが立派だから、本を出しているから、メディアに良く登場するから信用できるというような発想を捨てることです。ついでに、人気ブログに書いてあったからとかもw

でも実際は、それなりの「肩書き」の方が出す情報には、それほど間違いはありません(中にはとんでもない大ウソもありますが)。頭から否定する必要はそれほど無いのです。しかし、生き残るために「本当に役に立つか」という視点に立つと、巷の防災情報のあまりに多くがピントがずれていたり、単なるトリビアの類だったりします。また、理論的には正しいことでも、実際に使えない情報も多いのです。

例えば、地震が来たら落下物に「気をつけろ」とは誰もが言いますが、気をつけるってなんですか?どういう場所でどんな落下物があり、それがどんなダメージに繋がるので、どのような方法で避けるという部分まで落とし込んでいなければ、「その時」には何の役にも立ちません。当ブログでは、それをやっています。

現実にはそんなレベルの事を言うだけの「専門家」も多いのですが、まず批判はされません。それが「肩書き」の効果なんですね。なにせ本当は役に立たなくても、根本的に間違いで無ければ否定はできませんし。(繰り返しますが、大ウソも少なく無いですよ!)だから、「本当に役に立つ」情報を欲する我々は、疑わなければならないのです。

ちなみに当ブログの内容、良く言われますが、とても細かくなっています。でも管理人は、それが必要だと信じるから、こういうスタイルでやっていますし、おかげ様でそれなりの人気を頂戴しています。これでもし管理人がそれなりの肩書きを持っていたら、メディアからお声がかかるかもしれませんが、防災に関しては何の肩書きも無い(防災士と防火管理者だけじゃあしょうがない)ので、内容がどうであろうと、メディアに登場することは無いでしょう。

何故なら、こんな「素人」をピックアップして、もし何か問題が起きたら、メディア側の責任になりますから。「専門家」ならば、問題があっても主にそちらの責任です。その場合、メディアは「善意の第三者」ですし。もし登場するならば、その時は「文化人枠」ではなく、おもろい素人としてトピック扱いでしょうね。良く、おもろい動画の投稿者がインタビュー受けるような、あのレベル。もちろん、そんな露出をする気は全く無いですけど。それはやっかみではなく、一般的な映像や記事の尺では、管理人が伝えたいことを表現するのは無理だからです。

おっと話が逸れました。ともかくも、巷の防災情報は、まず疑ってください。そして、その中から「本当に役に立つ」情報を選択するのです。では、どうやって選択したら良いのでしょうか。これがまたいろいろな心理が邪魔をする難儀な話なのですが、当ブログの基本的スタンスとして、誰もができる方法は提示しません。元来、そんな方法はありませんし。

そうではなく、本気で「本当に役に立つ」情報を欲されて、あくまで能動的に探されている方へのアドバイスとさせていただきます。詳しくはまた次回に。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

《再掲載》【防災の心理13】東大教授とカリスマ店員(#1376)

今回のタイトルは、一見何の関連も無いふたつの「肩書き」を並べてみました。カリスマ店員が「肩書き」なのかはさておきw、両者は見方によっては良く似ているのです。鋭い方は、管理人が何を言いたいのか、もうおわかりかもしれませんね。

前のテーマでは、「集団心理」について考えました。特に非常時には、人は本能的に集団に依存したくなりますが、状況がある「しきい値」を超えると、集団の中にいることが危険を増幅することになります。ですから、状況によっては「生き残る」ために集団を抜け出さなければなりません。そのために必要なことは、「正しいことを知る」という一点に集約されるということです。

では、その他に依存したくなるものはあるでしょうか。と来れば、もうおわかりですね。それが「肩書き」なのです。「集団心理」依存は主に非常時の危険を招きますが、「肩書き」依存は、主に平常時における危険です。その危険とは、生き残るために「正しいことを知る」のを邪魔するということです。もっとも教授や店員が悪いのではなく、「肩書き」のイメージをことさら煽るメディアなどの問題なのですが。

ここで何故、敢えて「東大」という固有名詞を出したかと言うと、それが最大最強のブランドとして確立「させられている」からです。カリスマ店員ならば、イメージ的には渋谷のセシルナントカの誰々という感じでしょうか。もちろん管理人は、ガールズファッションについてなど何も知りはしません。それでも、そういうイメージを「持たされている」ということが重要なのです。

あるテーマにおいて、東大教授と管理人が違うことを言ったら、皆様はどちらを信用されるでしょうか。答えを待つまでもありません。管理人の完敗です。しかも東大教授は、「間違ったこと」は言わないはずです。であれば、相対的に管理人が間違っていることになる。しかし東大教授とて、すべてにおいて「本当に必要なこと」を言うとは断言できません。

研究の成果ならば、概ね正しいでしょう。管理人も、それを利用させていただいています。しかし何を強調し、指導するかは、それぞれの考えやパーソナリティにもよります。でもメディアにおいては、「東大教授のコメント」というだけで、無条件無検証で金科玉条のごとく流されるわけです。

なんだか東大を目の敵にしているように見えますが、そんなことはありません。ただ、「肩書き」の最も象徴的な存在として、東大を引き合いに出させていただいているだけです。実は東大の方々が、そんなイメージを苦々しく思われていることも多いということも知っていますから、以後はただ「教授」ということにしましょう。まあ実際いろんな「教授」がいますが、それでも「教授」は強力なブランドではあります。

先回りして言わせていただければ、記事タイトルが「教授」よりも「東大教授」の方がより注目を集めるはずという、イメージを利用した打算もあるわけです。イヤですね大人はw


一方、カリスマ店員が「お似合いですよぉ」と勧めてくれれるものならば、大抵の方は気持ちよく買えますよね。センスが良くて、それが世間に認められている人だし、何より「有名人」から直接勧められるという快感があります。世間に認められている人の勧めを受ければ、あなたも世間に認められるスタイルができるのです。それがブランドであり、「肩書き」の効果ということですね。

でもその服、あなたに本当に似合っていますか?いえ、きっと似合っているのでしょう。でもそれは、大抵「最大公約数」的な似合い方ではないでしょうか。もちろんそれで良いのです。ファッションならば。でも、例えばあなたが俳優のオーディションを受けるための服だとしたら、より「個」を際立たせなければなりません。流行りのファッション「だけ」でバリバリに固めただけでは、没個性と見なされて、第一印象は減点かもしれません。もちろん、それを吹っ飛ばす実力があれば良いのですが。

「個」を演出するということは、ちょっと強引にこじつければ、「あなたが生き残る」可能性を高めるということです。あなたが「生き残る」ためには、最大公約数的な情報を纏っているだけでは不十分なことも多いのです。必要なのは、「あなたに最も似合った」スタイルであり、それをもたらす情報です。そして、本当にあなたに似合ったスタイルは、自分の頭で考え、自分の足で探さなければ、なかなか手に入らないのです。

あなたが今何も知らなければ、入り口としては、メディア上で「教授」が出す情報や、カリスマ店員が勧めるような「最大公約数」の情報でも良いでしょう。「教授」を出せば(特に東大!)数字が取れる、カリスマ店員が一番多く売り上げるというのは、つまりはそれらが世間の「最大公約数」にマッチしているからということに他なりませんし、それがメディアやショップの目的でもあります。しかし、それだけでは不十分であると気付かなければなりません。「最大公約数」のまま止まっていたら、それはメディアやショップの「顧客満足度」を上げているだけです。

「教授」は学究の徒(のはず)ですから、科学的、理論的に整合性のあること以外は言いません(と、思いたいw)し、カリスマ店員は「あなたにウチの服は似合わない」とは絶対に言いません。あくまで「最大公約数」で終わりなのですが、災害でもオーディションでも、あなたが「生き残る」ためには、それなりの知識も技術も必要ということです。

次回に続きます。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

2019年2月12日 (火)

《再掲載》【防災の心理12】悪いのは自分だけじゃない!(#1375)

今回は、「群集心理に負けない」方法を考えます。

人は怖いとき、不安な時ほど、誰かと一緒にいたくなり、集団を形成します。それは人間の本能であり、しかも多くの場合、お互いに助け合うことにより、その方が良い結果に結びつきます。しかし、こと巨大災害など、ある「しきい値」を超えた状況になると、集団でいることが「生き残る」確率を下げてしまうことにもなります。その典型が、東日本大震災の津波被害でした。

状況が非常に厳しく、流動的な時点で集団の中にいることのデメリットは、危険の覚知が遅れがちになる、判断を他人に依存しやすくなる、行動の速度が遅くなる、集団と異なる行動をしづらくなる、小さなきっかけでパニック状態に陥り、二次被害が発生しやすいなどが挙げられます。

ですから、基本的にはそれなりの安全が確保できるまで、敢えて集団の中に入らないか、仮に集団の中にいても、意識して「自分の意志で動ける」余地を残しておくことが必要です。

では、そのためには何が必要なのでしょうか。前記事では、突き詰めればそれはたった一つの行動に集約されると述べました。その行動とは、「知る」ということです。

まず大前提として、集団の中にいることの危険を知らなければなりません。例えば東日本大震災での帰宅困難時、駅前などに立錐の余地も無いほど集まった人々の多くは、「みんなといることの安心感」だけを感じていたのではないでしょうか。しかしあの状況は、これまで述べたように、ある意味で危険極まりなかったのです。「たまたま」大きな混乱にならなかった、というだけです。

では、発災直後ではどうでしょうか。当テーマの最初の記事で、押し寄せる津波から避難する際に、集団と別行動を取って九死に一生を得た男性の例を挙げました。その男性は、何故そのような行動を取れたのかを検証してみたいと思います。それは、決して偶然では無かったのです。

その男性は、こう言いました。「みんなと同じ方向に逃げた人は、みんな死んでしまった」と。しかし、この場合は集団だから逃げ切れなかったということではありません。集団が間違った行動をしているのに、それに気付かず集団について行ってしまったことが誤りなのです。

では、なぜ男性は集団と別行動を取れたのでしょうか。実は、津波が来たらここへ逃げるということを、普段から考えていたのです。

過去に何度も津波被害を受けている三陸地方ですから、そのように考えていた人は決して少なく無かったでしょう。しかし実際に巨大な危険が目前に迫った時、恐慌状態に陥った多くの人は、ただ集団について行くことを選んでしまいました。それが「群集心理」の恐怖でもあります。冷静さを失い、多くの人が行く方向だから、それが一番安全に違いないという考えに捕らわれてしまったのです。

しかしその男性は集団から離れ、普段から避難場所と考えていた山の斜面を、藪をかき分けて登りました。もちろんそこは避難場所として設定されてはいないただの山でしたが、その男性は知っていました。津波の遡上速度は走るよりずっと速いから、とにかく最短時間で高い場所に上がらなければならないと。ですから、道が無かろうが藪が深かろうが、とにかく一番近い山に登ったのです。

その際、悲劇の集団はどうしたかというと、海を背にして街の奥の方へ、広い道を進んだのです。進むにつれて海抜が上がりますから、もっと時間があるか、津波の規模が小さければ、逃げ切れる人も多かったでしょう。しかし現実はあまりに過酷でした。

このような場合、集団は「最も簡単な方法」を取ってしまうことが多くなります。冷静さを失うと「ぱっと見で出来そうなこと」に偏りがちです。ですから、集団が最も進みやすい道を行ってしまったと考えられます。そして集団が進んでいるという事実が個々の考えを封殺しがちになり、さらに多くの人を引き寄せるという悪循環に陥るのです。なお、津波に関して言えば、集団が進みやすい方向とは、すなわち津波にとっても進みやすい、つまり最も遡上速度が速くなる方向です。

集団の中には「こっちでは逃げ切れない」と考えていた人もいたはずです。しかし、途中から集団を抜け出して独自の行動を取るには、とてつもない勇気と判断力が必要です。周囲に「絶対安全」と自信が持てる状況が無い以上、集団への依存を振り切って別行動をすれば、自分の判断だけが自分の運命を決めるという、完全に孤立無援の状態になります。それより、語弊を承知で言えば「他人のせい」にしておきたくなるのが、人の心理なのです。何が起きても「自分が悪いんじゃない」と。そして「群集心理」は、そのような依存心を増幅するのです。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というのは、主に集団ならば車の方が停まるという意味ですが、赤信号を無視するという罪悪感を集団が薄め、「悪いのは自分だけじゃない」と開き直りやすいという意味でもあります。

このような心理は、災害に関する根拠の無い予知だの予言だの、エセ科学やオカルトめいたものが衆目を集めることにも繋がるのですが、それは別稿で触れることにします。

ともかくも、件の男性は集団と別行動を取って生き残りました。それは、普段から「こうなったらこうする」という、確固たる考えがあったからです。だから集団の行動が誤りであると瞬時に判断し、そこから抜け出すことができたのです。と言うより、抜け出さずにはいられなかったでしょう。そして、それを可能にしたのは、正しいことを「知っていた」という事に尽きます。

ただ、正しいことを「知る」ということは、そう簡単なことではありません。巷に溢れる情報を、ただ受動的に眺めているだけでは、ほぼ不可能です。当ブログでいつも触れているように、「本当は役に立たない」情報ほど目につきやすく、興味も惹きやすいのです。あくまで能動的に「本当に役に立つ」情報を選択し、災害時には「何が起こる、その時はこうする」という様に、体系的に整理しておかなければ、いざという時には役に立ちません。役に立たないということは、「生き残れない」ということです。

あるアンケートによれば、災害対策用に用意しているものの筆頭は、懐中電灯だそうです。その後に水、食品などが続きます。懐中電灯(LEDライト)は管理人も重視していますし、水も食品も必要です。

でも、敢えて言いましょう。過去の災害で、懐中電灯があったから生き残れたという話、聞いたことありますか?災害後、我が国だけでなく、インドネシアでもハイチでもチリでも中国でもアフガニスタンでもトルコでもその他でも、大災害後に赤ちゃんひとりでも餓死したという話、聞いたことありますか?

それは全く無かったということではありません。災害後に、脱水症や栄養不良が原因で潰えた命もあります。しかし、レアケースなのです。それ以前に、まず「災害の第一撃」を生き残らなければなりません。

大災害に遭遇すると、誰でも冷静な判断がしづらくなります。そして災害が巨大なほど、事態が緊急を要するほど「群衆心理」が頭をもたげ、誤った行動に繋がりやすくなるだけでなく、自ら危険に近付いてしまいやすくなります。

しかしそこに危険があるならば、自らの意志で集団から抜け出して、より「正しい」行動をしなければなりません。それを唯一可能にするのが、正しいことを「知る」ということなのです。

「本当は役に立たない」情報ばかり気にしていたら、その帰結を負うのは、あなた自身です。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

《再掲載》【防災の心理11】パニックはどこからでもやってくる(#1374)

前回記事では、往年の名ギャグ「赤信号、みんなで渡れば怖くない」を例に引き、大抵の場合はそれで大丈夫だと述べました。しかし、状況がある「しきい値」を超えると、「みんな」でいることが危険を増幅することもあり得るとも。

具体的にどういうことかというと、大人数で赤信号を渡っていれば、平時ならば大抵の車は止まります。もし、よそ見している車が突っ込んで来たとしても、被害を受けるのは運悪く車が突っ込んで来る方向にいた一部です。つまり集団の端にいさえしなければ、少なくとも自分はほとんど被害を受けません。大抵の自然災害も、そういうレベルで収まるわけです。

でも、突っ込んで来たのがダンプカーだったら、しかも運転手は酒に酔っていて、パトカーに追われて正気を失い、アクセルべた踏みで突っ込んで来たとしたら。このようなことが「しきい値」を大きく超えた、滅多に起きない巨大災害ということであり、東日本大震災はそういうレベルだったのです。危険地帯にいたら、何もしなければごく僥倖に恵まれる以外に生き残る途は無く、行動してもそれが誤りや不十分だったら、結果はあまり変わらなかったのです。

もしそこで一人でいたならば、ダンプカーの動きを見極め、ほんの数歩移動して直撃さえ避けられれば無事でいられます。しかし集団の中にいたとしたら、まず危険の覚知が遅れがちになる、移動しようとしても周囲の人並みに阻まれる、他の人の動きや転倒などに巻き込まれるなどの阻害要因がある上、それ以前の段階で集団の中にいるという安心感がありますから、危険を覚知しても緊急避難モードへの移行が遅れがちになり、「みんなと一緒だからなんとかなる」という思考停止に陥りやすく、行動開始自体が遅れるでしょう。さらに他の人が恐慌状態に陥ったりすれば、それが伝染して冷静な判断がより難しくなります。高密度の集団ほど、恐慌状態が伝染、拡散しやすいのです。

ここで言う「しきい値」とは、集団に対して思考停止や恐慌を招く強度の不安や恐怖が与えられ、統制の取れた行動ができなくなるレベルのことです。注意しなければならないのは、それは決して災害など状況の重大さに限らないということです。巨大災害時に集団パニックが起こりやすいのは、ある意味で当然予想がつきます。しかし高密度の集団では、実際に危険が無くても、例えば誰かひとりが上げた悲鳴から集団パニック状態に発展することもあるのです。特に災害直後で不安心理が強い場合は、その可能性が高くなります。

そうであれば、発災直後の緊急避難時や、危険がまだ完全に去っていないうちに高密度の集団の中にいることは、避けるべきであると考えなければなりません。

繰り返しますが、大抵の場合は集団の中にいても大丈夫なのです。ですから、とりあえず皆と同じように動けというような経験則も生まれます。しかし状況が「しきい値」を超えると、集団は凶器にもなります。そして、その「しきい値」がどこにあるかは様々な状況に左右され、最終的には「実際に起きてみないとわからない」のです。それでもあなたは、災害時にただ集団の中にいたいですか?

とはいえ前述の通り、不安な時ほど集団の中にいたくなる心理は、人間の本能でもあります。ですから、それと異なる行動をするためには、不安を乗り越えて集団に依存したくなる気持ちを振り切る必要があります。それも発災直後の緊急避難時には、強い恐怖と不安の中で、ほとんど瞬間的に「独立思考」しなければなりません。それは、口で言うほど簡単なことでは無いのです。

管理人が考えるに、それを可能にする要素はただ一つです。そのためには様々な事前準備が必要ですが、突き詰めればたった一つに集約されます。それが具体的にどういうことなのか、東日本大震災における実例を元に、次回考えてみたいと思います。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

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