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被災地関連情報

2014年12月 4日 (木)

大川小の悲劇は我々に何を問うのか

管理人は、東日本大震災の被災地を訪問した際の動画を、youtubeで何本か公開しております。

その中で、多くの児童が津波の犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校周辺の状況をまとめた動画に多数の閲覧を頂いており、先日再生回数が9000回を超えました。

そこで、この機会にあの悲劇の意味と理由、そこから得られる教訓について改めて考えていただければと思い、記事とします。


約4分間の動画では、現場周辺の状況から『そこで何ができたか、何ができなかったか』を検証しています。

音声は環境音のみです。稚拙な編集でお恥ずかしいのですが、要点は画面にテロップを入れていますので、サイレントでもご覧いただけます。

併せて、地物以外の状況も考えたレポート記事もアップしておりますので、是非ご覧ください。

■youtube動画
【石巻市・大川小】悲劇の現場を検証する映像集
http://youtu.be/xHv6fV8kEvU

■関連記事
【大川小からの報告1】宮城・震災から1年8ヶ月【11】
【大川小からの報告2】宮城・震災から1年8ヶ月【12】
【大川小からの報告3】宮城・震災から1年8ヶ月【13・最終回】
改めて『大川小の悲劇』を考える

そこには様々な状況があり、様々な考え方があります。

しかし、そこから得られる教訓は

”早く逃げろ 正しく逃げろ”

このふた言に集約されます。

あの悲劇の現場をご覧いただきながら、それがあなたの居場所で起きたら何が起きるか、何ができるか、何をしなければならないかを、改めてお考えいただければと願っています。


災害の記憶は風化して行きます。

しかし凄惨な悲劇から得られた教訓をひとりひとりが生かし、さらなる犠牲者をひとりでも減らすための考え方と体制を確立して、それを後世に引き継ぐこと。

それが、悲劇を風化させないということだと管理人は考えます。


■当記事は、カテゴリ【被災地関連情報】です。

2013年11月20日 (水)

福島レポート【2013/11/9】その3

南相馬市原町区を後にして、国道6号線を南下して小高区へ向かいます。ここは原発から20km圏内の警戒区域だった場所で、2012年の4月に警戒区域指定が解除されたものの、現在でも夜間の入域や宿泊は禁止されており、かつての生活は全く戻っていません。

管理人は2011年中からこの地区を見ており、さらに1年後も訪れていますが、今回同じルートを走ってみても、事実上何も変わっていません。地震で崩れた壁なども、あの当時と全く同じ状態でした。しかし、昼間だけでも稼働している工場なども散見され、除染作業も含めて、再生への努力が続いているのも見られました。

小高区内を南下し、現在も立ち入り禁止の浪江町との境界方面へ向かうと、打ち捨てられた牛舎が深い草の中に沈んでいます。2011年当時は、その付近でも牛舎から放たれた牛が群れていましたが、1年後も現在も、もうその姿は見られません。牛たちは、おそらく浪江町内方面へ移動したのでしょうが、閉じこめられたまま全滅となった牛舎も少なくなく、改めてその中を覗く勇気は、管理人にはありませんでした。間もなくあれから二回目の、放浪動物にとって過酷な冬がやってきます。

小高区内で、浪江町との境界付近の道路際、地上1mで測った放射線量が下画像です。
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平坦な草地の脇でしたが、2.35マイクロシーベルト毎時と、一年前とほとんど変わっていない高線量のままです。さらに奥に入れば、数十マイクロシーベルト毎時を超える高線量地域も少なくないとのことです。

次に、小高区の海沿いへ向かいました。震災から1年後、管理人は小高区の村上海岸へ行っていますので、まずそこへ行ってみました。旧警戒区域の北限付近に当たるその場所では、津波で破壊された家の撤去作業がやっと始まっており、家の土台だけが残されていました。前回訪問時に比べて、被災車両の数もかなり減っています。しかし、かつての田畑の中には、少なくなったとはいえ、激しくひしゃげ、赤さびた車やトラクターが未だ点々と残っています。

今回、さらに南側の海岸付近へ初めて行ってみました。そこでは、一階部分を津波で破壊された建物が、まだほとんどそのままです。約一年前の警戒区域解除直後には、破壊された家の中に生活の痕跡がそのまま残っていることが多かったのですが、現在はとりあえず片づけられている家が多く見られました。しかし、全く「あの日のまま」という家もあります。誰も、一度も戻って来ていないのです。

海沿いの堤防のかなりの部分は津波で破壊されており、大型土嚢が積まれています。さらに一帯はかなり地盤沈下しているようで、かつての田畑は湿地帯のような状態です。その中に原型を留めない車が放置されています。

その付近は津波後も長い間水が引かなかったと思われ、取り残された車は下画像のような状態です。
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車体に、フジツボなどがびっしりと付着しており、何ヶ月も水没していたことがわかります。管理人はあちこちの被災地を見て来ましたが、こんなのは初めて見ました。この辺りでは、あの日の状態から、今やっと時間が進み始めたばかりのように感じます。


原発に対しては様々な考え方がありますが、大切なことは事実を事実として正しく認識し、その上で今後の在り方を考えなければならないということではないかと、時間が止まった被災地に立って、改めて考えさせられました。できれば、より多くの方がこの状態を実際にご覧になられることをお勧めしたいと思います。

南相馬からの帰路は、かつてはそのまま国道6号線を南下して常磐自動車道に乗れば良かったのですが、国道6号線も常磐自動車道も警戒区域で分断されている現在は、一旦福島市方面に戻って東北自動車道に乗らなければなりません。

日が落ちた後、再び飯舘村を通過したのですが、その市街にほとんどが明かりが無く、真っ暗闇でした。それらの地を追われた被災者が未だ20万人も避難生活を送っており、特に原発事故被災地では、その多くが帰還の目途も立っていないという事実を、我々は決して忘れてはならないのです。

今回の福島レポートは、これで終了します。


■当記事は、カテゴリ【被災地関連情報】です。

2013年11月19日 (火)

福島レポート【2013/11/9】その2

福島レポート二回目です。

福島市郊外のSORAシェルターを後にして、飯舘村を経由して海沿いの南相馬市へ向かいます。実は管理人、福島-南相馬のルートは何度も走っているものの、福島市から飯舘村経由で行くのは初めてです。

2011年中は飯舘村付近の放射線量がかなり高かったために、飯舘を通る国道114号線ではなく、一本北側の115号線で相馬市へ出て、そこから国道6号を南下して南相馬へ入るルートを使っていたのです。主に谷間を走る114号線に対し、115号線は山越えなので線量がずっと低く、南相馬までは一時間近く余計にかかるものの、当時はそちらが浜通りへのメインルートになっていました。

飯舘村付近は、今が紅葉の見頃という感じでした。美しい場所です。
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現在は国道を走る交通量は多いのですが、少し山に入ると線量はいまだに高く、住民はほとんど戻って来ていません。村内ではあちこちで「除染作業中」の幟が立てられて、作業員の姿だけが目に付きます。

国道を逸れて飯舘村役場に立ち寄ると、駐車場は除染作業関連と思われる車で埋まっていますが、住民らしい姿はほとんど見られません。家々も、ほとんどが雨戸やカーテンが閉まったままです。

高台にある飯舘村役場から谷筋に下りて、ちょろちょろと水が流れる道路脇の側溝の上1mで放射線量を測ってみました。低地で雨水が集まる場所という、線量が高くなりやすそうな場所です。
Sany0031
ご覧の通り、役場近くの道路脇でも2.28マイクロシーベルト毎時という、非常に高い線量が出ました。なお、測定にはエステーのエアカウンターSを使用しており、プラスマイナス20%の誤差を含んでいます。

村内には、未だ非常に線量が高いために立ち入り禁止の「帰還困難区域」も設定されており、この場所に「日常」が戻るまでには、厳しく遠い道のりが続くことを感じさせます。


飯舘村を出て、国道114号線で南相馬市へ向かいます。ここから先、国道はずっと谷筋走っていて、地形的に原発から北側に流れた放射製物質が集中しやすかったことがわかります。

南相馬市では、まず原発20km圏のすぐ北側になる、原町区の原ノ町駅付近へ行きました。2011年中は、警戒区域外とはいえ線量が高く、街はほとんど無人でした。1年後に訪ねた時は商店も少し開き始めて、少し活気が戻ったように思えました。そして2年8ヶ月後の今回は、知らなければ原発事故被災地とはわからないくらいに、街は活気を取り戻しているように見えました。

しかし、表向きからはわからない多くの問題を抱えていることを、この地区から避難された被災者の方から伺っています。決して震災前の状態に戻った訳ではありません。でも、再生への息吹は確実に感じられたのです。

原ノ町駅の側線には、あの日緊急停車したまま取り残された、特急スーパーひたちと普通列車の車両が今もずっと留置されたままです。
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JR常磐線は、ここから南側は当初の警戒区域に入るために休止、北側は隣の相馬駅から先が、津波被災のため休止されています。現在は、原ノ町-相馬駅間のみ区間運転が行われていますが、それ以上の復旧の目処は立っていません。

次に、旧警戒区域である小高区へ向かいました。次回へ続きます。


■当記事は、カテゴリ【被災地関連情報】です。

2013年11月17日 (日)

福島レポート【2013/11/9】その1

管理人は去る11月9日、久しぶりに福島へ行って来ましたので、最近の様子をレポートしたいと思います。別記事でも触れていますが、今回は被災動物支援チャリティーにご協力いただく、漫画家の所十三先生に同行していただきました。

9日未明に都内を出発し、朝一番で福島市街を見下ろす山の上にある、SORAシェルターに到着しました。設定は多少異なりますが、連載中の「小説・声無き声」のモデルとなっている場所でもあります。
Kon
眼下に拡がっているのが福島市街です。周囲は自然に囲まれ、人家もあまりありませんので、どんなに吠えても大丈夫。都市部の保護シェルターに比べれば、犬たちは非常に良い環境で過ごしています。

管理人がここに最初にボラとして入ったのは、震災から二ヶ月経った2011年5月でしたが、震災から二年八ヶ月になる現在も、シェルターにいる犬たちの顔ぶれはあまり変わっていません。それでも何匹かは里親に引き取られ、代わりに新顔が来ていたりもします。

避難によって飼育不能になった飼い主から預かっている犬も、一部は近々家に帰れることになったそうです。津波や原発事故で住む地を追われ、避難所や仮設住宅を経て再び「犬が飼える」状態にまで生活を戻された飼い主の、この二年八ヶ月間のご苦労が偲ばれます。もちろん、集合住宅住まいに変わったりしたために引き取れない飼い主も、まだ数多くいます。

犬たちを少し紹介しましょう。
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上画像は、「小説・声無き声」で、主人公の三崎玲奈が最初に散歩させるビーグル犬のモデル、ナナちゃん。警戒区域内からの預かり犬です。

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当時から管理人ととても気が合った(笑)黒柴のヤンちゃんです。やんちゃだからという説が有力。飼い主不明。

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一見柴犬ですがたぶん雑種の、サンちゃんです。原発から30km圏内で保護されたので、サンちゃんです。飼い主不明。

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シェルターのアイドル、モフモフです。津波跡で保護された時は汚れたモップそのものだったので「モップ」と呼ばれ、それが転じてモフモフとなりました。飼い主不明。

こんな犬たちが30匹以上います。預かり犬以外の名前は、保護後に名付けられました。もちろん本名はわからないのですが、震災から二ヶ月後でも、なんだかみんなすっかり新しい名前を受け入れていたように思えました。

こんな犬たちが、これからずっと長い間に渡る支援を必要としていて、その終わりは見えません。

今回は事情により猫舎訪問は見合わせましたが、猫もたくさんいます。犬猫シェルターの最新状況はSORAブログやライブカメラでご覧いただけますので、文末のリンクからどうぞ。

今回、山を下る時に、道端に突然野生のカモシカが現れました。写真を撮っても気にせず、悠然と草を食べていました。本当に自然豊かな場所です。
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シェルター訪問の後は、飯舘村を経由して海沿いの南相馬市へ向かいました。その様子はまた次回お送りします。

■SORA公式ブログへはこちらから
 http://blog.goo.ne.jp/sora-fukushima


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2013年1月23日 (水)

【大川小からの報告3】宮城・震災から1年8ヶ月【13・最終回】

前回からだいぶ間が空いてしまいましたが、このシリーズ記事も今回で最終回として、考察とまとめをしてみます。管理人が現地で撮影してきた資料動画もアップしましたので、ぜひご覧ください。

youtube動画「大川小学校現場資料映像集」(4分5秒)はこちらから
http://www.youtube.com/watch?v=xHv6fV8kEvU


前回までの状況をお読みいただいて、もしあなたがあの場の管理者だったらどのような判断をしたかを考えて見てください。あまりにも困難な状況です。

もし管理人だったらと考えると、果たしてすぐに「裏山へ全員避難」と決断できたかどうか、正直言って自信がありません。ハザードマップの評価や過去の災害史を知っていることが、逆に判断を甘くしてしまったかもしれません。

情報が無ければ判断を誤る可能性が高かったでしょうし、あったらあったで「想定外」への対応を甘くするかもしれない。そして「現場」では大抵は情報が無いか、錯綜するかのどちらかです。ならばどうするか。

これはもう「なりふり構わず怖れる」しかない、つまり後のことは考えずに「最悪の状況を想定する」しかないかなと思います。そうして最大限の危機回避行動をする。

その結果、実際には大したことがなかったら、やりすぎだの大げさだのと批判を受けるのが世の常であり、それが判断を鈍らせる原因のひとつでもあります。でも、とにかく「生き残る」ことを優先するのだと、日頃から腹を決めておかなければなりません。死んだら終わりです。


ここで、皆様に軍隊の指揮官になっていただきましょう。下記の状況で、あなたはどんな判断をするでしょうか。

あなたは3つの部隊を指揮しています(それぞれA、B・C部隊とします)。AとBはそれぞれ第1地点と第2地点で敵と交戦中で、あなたは予備兵力のC部隊と共に後方にいます。あなたの任務は、第1、第2地点共に敵の攻撃から守り抜くことです。

そこへA部隊から連絡が入りました。「敵の数が多く突破されそうだ、増援を頼む」

C部隊の全部を第1地点へA部隊の増援に送れば、確実に敵を圧倒できます。でも、全部を送りたくない。半分送れば、とりあえず敵の数と拮抗します。実は、第2地点のC部隊は現時点では敵と互角に戦っているものの、少しずつ押し込まれています。今後増援が必要になる可能性があるので、手元に予備兵力を残しておきたいのです。

そこで指揮官であるあなたは、どのように部隊を動かしますか?

正解は「第1地点へC部隊全部を投入する」です。それ以外はすべて不正解です。状況は第1地点が赤信号、第2地点が黄信号と言えます。その状況でも、目前の最大の危機に対して、全力で対応しなければなりません。

ここでもし第1地点にC部隊を半分だけ送り、それでも危なければさらに半分を送ればいいと考えたり、C部隊を第1地点に三分の二、第2地点に三分の一を送る、一見合理的に見えるような判断をすれば、高い確率で両地点とも突破されてしまうのです。

ここで最も危険なのは、第1地点における敵の勢いです。同じ数の兵力を揃えただけでは圧倒されます。まず持てる全力でその芽を潰すことを最優先しなければ、結果はさらに悪くなるのです。まずは第1地点を確実に確保し、場合によっては第2地点を放棄、撤退という選択肢も考えなければなりません。

その場合、任務を達成できなかったあなたは後で責任を追求されることになるでしょうが、両地点を失ったり、部隊を全滅させるよりはマシなのです。

このようにすべてをうまくやろうとした結果、それぞれへの対応が甘くなり、結果的にすべて悪い状況に陥ってしまうことは絶対に避けなければなりません。でも、わたしは兵隊じゃないから関係無いと思ったあなた、違いますよ。
ここではわかりやすい例として軍隊を例に取りましたが、これはビジネスにもスポーツにも人間関係にも、もちろん災害対策にも、そのまま当てはまることなのです。

つまりは、最優先の目的のために、今できることをすべて全力でやらなければならない、ということです。軍隊を例にとったことにご批判の声もありましょうが、どちらも「命がかかっている」という点において共通です。

ビジネスやスポーツの失敗はやり直しもできますが、命がかかっているとそうは行きません。少なくとも、災害対策においては「中庸を得る」ことがベストとは言えません。できることを最短時間で徹底的にやるのです。「中庸」が良いのは主に処世術です。それ以前に、まず生き残らなければ。


こんなことを力説するのも、大川小はじめ各被災地を訪ねて、あまりに理不尽な状況をたくさん見聞したからです。その時できることを完璧にやったとしても、生き残れないことなどいくらでもあったのです。

でも、そんな中で一筋の光明を見い出す可能性を少しでも大きくしたい。そのために必要な基本的な考え方と行動が、ここで述べたようなことだと確信します。特に、他の人の運命を左右する立場の管理者、責任者の方は是非このことを覚えておいていただきたいと思います。

あの「釜石の奇跡」とは、普段からの教育と訓練により、結果的に皆が指揮官としての判断力を持った結果、最短時間で最良の避難行動が完成した例です。しかし、そんな集団はあまりありません。ほとんどの集団では、管理者、責任者の判断にかかっているのです。

災害犠牲者の恐怖と無念を想い、その「声無き声」を聴き取って、同じような悲劇を繰り返さないこと。それが生きている我々の責務なのです。

これで「大川小からの報告」を終わります。


■このシリーズは、カテゴリ【被災地関連情報】です。

2013年1月 8日 (火)

【大川小からの報告2】宮城・震災から1年8ヶ月【12】

今回は、大川小の悲劇を取り巻く状況を明らかにし、その時「何ができて、何ができなかったか」を検証します。

まず、過去の津波の状況です。北上川は、1933年(昭和8年)の昭和三陸津波、1960年(昭和35年)のチリ地震津波が遡上した記録があります。しかし両津波の浸水域は河口から最大でも2km程度までで、河口から約5kmの大川小付近では、地上の被害は全くありませんでした。

次に、過去の津波被害を参考にして宮城県・石巻市が作成した震災前の津波ハザードマップにおける評価では、大川小付近での予想津波高さは0~1m。現在の堤防は低い場所でも水面から2m以上の高さがありますから、ハザードマップの評価からはこの場所が浸水する可能性は考えられず、大川小は地域の指定避難所にもなっていました。

仮に津波が堤防を越えても、鉄筋コンクリート造り校舎の2階に上がるか、水面から約5mの高さがある「三角地帯」へ行けば、津波に呑まれる可能性は無いはずでした。このためもあり、大川小が危険になった場合を想定した二次避難場所については、事前に決められていなかったのです。

では、「三角地帯」以外に避難場所はあったのでしょうか。画像を見ればわかりますが、大川小の裏手にはすぐに山が迫っています。一番近い斜面は校庭から約50mほどで、ゆっくり歩いても数十秒で斜面の下に着きました。
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上の画像は校庭付近から見た様子、次は三角地から見た様子です。ご覧のように急斜面に深い藪が密生していて、大人でもそれをかき分けながら登るのは困難です。事実上、避難場所には使えません。

もうひとつの場所もありました。学校の敷地の裏手、「三角地帯」とは敷地を挟んで正反対の方向にある斜面です。校庭からは、それでも歩いて2分以内に着きます。
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上画像は校庭から見た様子。木の無い斜面の奥に見える杉木立の部分です。次の画像からもわかる通り、深い森ながら藪は薄く、細い道もついているので、登ること自体はそれほど難しくありません。この山は小学校の実習授業で使われたこともあり、教師や子供たちも登った経験があったそうです。できることなら実際に登ってみたかったのですが、立ち入り禁止になっていますし、ご覧のように犠牲者の仮の墓標がしつらえられています。そんな場所へ立ち入ることは、厳に慎まなければなりません。

この山の問題は、急な斜面の土質が泥炭質ですべりやすく、当時は少し雪が降った後で、さらにぬかるんで滑りやすかったということです。しかしこの山なら十分な高さに上がることができ、津波の直撃からは確実に逃れることができます。学校のすぐ裏手に、このような避難場所が存在したのです。


この悲劇の最大の直接的原因は、避難開始が遅すぎたということですが、その理由はつまるところ「二次避難すべきか、するならどこへ行くべきか」という決断がなかなかできなかったということです。では、なぜすぐに決断できなかったのでしょうか。管理者の立場で考えてみました。

まず、ハザードマップの問題。それを全面的に信じれば、二次避難の必要は無いと考えられます。次に、集団の把握と一般避難者の存在。深い山の中で児童の安全を確保し、だれも迷わないように把握し切るのは容易ではありません。しかも一度山に入ってしまえば、児童を迎えに来た父兄への引き渡しもできません。

さらに地域の避難所でもあった大川小には、近隣のお年寄りも集まっていました。お年寄りにぬかるんだ急斜面を登らせることはためらわれます。これは実際に山を見た管理人の感想としても、無理からぬことだと思います。

しかも、雪がちらつくほどの寒さなのです。山に入れば、その中で津波の危険が無くなるまでの数時間以上(実際には24時間以上)を持ちこたえなければなりません。停電していていて明かりもなければ暖もとれず、時間は午後3時過ぎ。間もなく日が落ちて、一気に寒くなります。


これは責任云々ではなく、人間の心理として「できることなら動きたくない」という方向に傾くのは仕方ない状況だったでしょう。そして、そんな場合に人は「楽観バイアス」または「正常化バイアス」と呼ばれる心理状態に陥りやすいのです。つまり、正当な根拠もなく「きっと大丈夫だ」、「大したことはない」と危機を過小評価してしまう心理状態です。管理者がそう思ったかどうかは定かではありませんが、その可能性は高いでしょう。この心理は、知識を持った防災の専門家でさえ、意識していないと簡単に陥るものなのです。

しかし、地震の大きさから「ここにいては危険だ」という進言が相次いだそうで、管理者は混乱したでしょう。いくつかの証言を総合すると、その時管理者は事実上思考停止状態に陥ったまま、ただ時間だけが過ぎて行ったようです。もとより、学校管理者は一般避難者に対する避難指示などを行う立場でもありません。制度的にも当然ですし、当初から二次避難自体が想定されていなかったのですが、そこにいる全ての人の運命が、事実上管理者に委ねられたのです。

恐怖で泣き叫び、腰が抜け、吐く子供もいたそうで、全く「想定外」の混乱状況です。そして地震から約50分後、下された決定は、5mほどの高さがある「三角地帯へ避難する」ということでした。結果的にそれも「誤り」ではあったものの、過去の例やハザードマップの情報からすれば、ある意味で「次善の策」としては合理的とも言えます。「想定内」か、それを少し超えるくらいの津波だったら、それでもほとんどが無事だったはずなのです。

しかし、「三角地帯」へ向けて移動を始めた隊列を、正面から津波が襲いました。仮に、その前に「三角地帯」へ着いていたとしても、結果はあまり変わらなかった可能性が高いことは、前述した通りです。むしろ、もっと悪かった可能性さえあります。


このように、何もかも「想定外」の状況だったということができます。震災後、「想定外」という言葉は言い訳のニュアンスでとらえられることが多いのですが、基本的に想定無くして対策もありません。問題は、その想定をどのレベルまでしておくか、そして「想定外」をも想定するオプションが存在するかどうかということなのです。

では、この場合は具体的にどうすれば良かったのでしょうか。結論だけを単純に言えば、「最短時間で裏山に上がるべきだった」ということですが、なぜそれができなかったのか、そこに働いた様々な要素をどう理解し、判断するかという考察なくしては、この悲劇の教訓を後世に生かすことはできません。

つまり、同様のケースに直面した時、私たちはどうすべきなのかというレベルにまで落とし込んで考え、その結果をだれもが出来るように一般化、制度化しておかなければならないのです。責任の追求だけで終わっては、また似たような悲劇が繰り返されることになります。

次回は「どうするべきだったのか」を考え、最終回となります。


■このシリーズは、カテゴリ【被災地関連情報】です。

【大川小からの報告1】宮城・震災から1年8ヶ月【11】

当シリーズ最終記事となる「大川小からの報告」を、これから三回に渡ってお送りします。最終回には、動画もアップします。

本文に入る前に、まずこの記事の主旨についておことわりしておきます。管理人は、この悲劇に関わるいかなる人々に対しても、責任の追求または擁護などすることを目的としていません。この記事の目的はあくまでも、あの時の条件下においてどれだけの判断や行動が可能だったのかを現地に立って自分なりに検証し、その結果を報告させていただくものです。

場合によっては、ご遺族や関係者様の感情にそぐわなかったり、責任問題の方向性と異なる部分があるかもしれません。しかし、最大の目的はあのような悲劇を繰り返さないために現場から学ぶことであり、他意は全くありません。そのような前提でお読みいただきたいと思います。なお、管理人が現地を訪問したのは、2012年10月12日です。では、本文です。


宮城県石巻市の大川小学校は、追波(おっぱ)湾に注ぐ北上川河口から約5kmほど遡った川沿いに位置しています。この辺りから河口までの北上川は川幅も非常に広いゆったりとした流れで、川というよりはリアス式の湾のほとりにいるような印象を受けます。
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上画像は河口から約3km地点から上流方向を見たものです。画面奥にかすかに見えるのが新北上大橋で、その左岸に大川小学校があります。

大川小学校の近くでは新北上大橋が北上川を渡っており、そのたもとは橋の高さに合わせて堤防が高くなっています。水面からは優に5m以上はあるでしょう。そこが、避難者の隊列が目指した「三角地帯」です。
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上画像は「三角地帯」から大川小を見下ろしたもので、これだけ高低差があります。二階の屋根の高さとほぼ同じ高さくらいです。校舎手前の校庭からここまで、道沿いに歩いて約200m。ジョギング程度に走れば、1分半もあれば着くほど近い場所です。

川は画面左側の堤防の裏で、水面の高さは校舎の地面とほぼ同じ。海は画面奥方向の約5km先です。もちろんここから海は全く見えません。それどころか、この三角地帯からも、北上川の水面はほとんど見えません。
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この場所からでも意識して河口方向を見ていなかったら、津波が遡上して来るのは気付かなかったでしょう。しかもここから1mでも下に降りたら、川は堤防の陰で全く見えなくなります。なお、堤防の手前の水面は富士川という小河川で、こちらには堤防がありません。最終的に河口付近で北上川に合流します。あの時は、背後の山の上から津波の遡上を発見した人が小学校に危険を知らせようとしたそうですが、その情報は届きませんでした。

地震発生から約50分後、津波の接近を全く察知できていなかった教職員と子供たちの、そして近隣の避難者の隊列は、校庭から三角地帯を目指して移動を始めました。しかし隊列がまだ低地にいる時に、津波は三角地帯を超えて、前方から襲いかかったのです。
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上画像は、校庭付近から三角地帯を見たものです。橋の左側、信号が立っている辺りが三角地帯です。津波襲来時はあの信号柱がなぎ倒されており、それほどの水流がこの場所を超えたということがわかります。津波前はここにも家並みがあってこれほど見通しは良くなかったはずですが、三角地帯は同じように見えたと思われます。

そこにいた皆が、三角地帯を超えてなだれ落ちてくる真っ黒な濁流を目の当たりにしたのです。海は右後方です。しかし濁流は堤防を超えて前方から流れ込んで来たのだといいます。ほぼ同時に、濁流は右後方の堤防の低い部分も超えて来たそうです。

目の前100mもない三角地帯を超えて、そして背後からも突然襲いかかる濁流。数秒で足下に水が来たでしょう。逃げる時間はほとんど無かったはずです。最終的に、この場所は小学校の二階の屋根がほとんど水没する5m近い濁流に覆われ、鉄筋コンクリート造りの小学校を除き、周囲のすべての家は跡形も無く流されました。近くの山の斜面に最大水位の印が残されていますが、濁流はさらに山の斜面を10m近くまで遡上したそうです。
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校舎二階屋根のひさしに瓦礫がぶつかった跡があります。その高さまで水没したのです。

そして、児童76名と教職員11名が死亡または行方不明という凄惨な結果となりました。隊列の後方にいた児童のひとりは、津波を見て後方の山に向かって走り、押し流されながらも這い上がって助かったそうです。しかしそれも奇跡的なことであり、現場に立ってわかることは、濁流を見てからでは、安全な場所に逃げ切れる可能性はほとんど無かったということです。もちろん、自分がそこにいたとしても。


実際に惨劇の場所に立つと、言葉では表現できない重苦しい感情にとらわれます。現場ではまず最初に、校門跡にしつらえらえた祭壇に献花をして、祈りを捧げました。
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完全に破壊された校舎の姿に、こんな巨大な力に為すすべも無く襲われた子供たちの恐怖と無念を感じ、ただ悔しさに歯ぎしりをする思いです。
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それから周辺を歩いて、実際の位置関係や距離を調べ、そして感じます。考えているのは、「もし自分があの時ここにいたら、どのような判断と行動をしたのだろうか」ということです。

この悲劇において、直接的な原因は二つに絞られます。まず、避難開始時間が遅すぎたこと。そして、避難場所も適切でなかったこと。仮にもっと早く三角地帯に到達していても、全員が津波に流されたはずです。あとで動画でご覧いただけますが、三角地帯からさらに高い場所へ避難することは、ほとんど不可能でした。

では、なぜそのような判断になったのでしょうか。次回はあの時の条件と周囲の状況を総合し、「あの時何ができたのか、何ができなかったのか」について検証します。

■このシリーズは、カテゴリ【被災地関連情報】です。

2012年12月19日 (水)

【仙台市荒浜】宮城・震災から1年8ヶ月【10】

今回は、仙台市内の荒浜地区へ再び向かいます。なお、現在この地区は関係者以外立ち入り禁止になっていますので、仙台在住の方に同行していただいています。

仙台市郊外の海沿いに広がる広大な住宅街だった荒浜地区は、堤防を決壊させて突入した大津波にすべて押し流されました。唯一完全な形で残った建物は、荒浜小学校の校舎だけです。

ここは全く平坦な土地なので、安全な避難場所は荒浜小学校の3・4階と屋上しかありませんでした。敷地内の体育館も一階部分が完全に水没しました。そして濁流は2kmほど内陸を走る仙台東部道路の築堤にまで達し、そこまでの間に確実に安全な避難場所はほとんど無かったのです。

訪問時は、すっかり日が暮れていました。昼間はインフラの復旧工事が行われていますが、夜になると大都市のすぐ近くとは思えない、ほとんど無人の暗闇です。この荒浜地区だけでなく、南の仙台空港にまで至る海沿いの地域は、いまだにほとんどすべて無人の暗闇に包まれています。

暗闇の向こうに仙台中心部のまばゆい街明かりが広がっているのが、なんだかとても不思議に思えます。下画像は手持ちでスローシャッターを切ったので、かなりブレているのはご容赦ください。
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画像の中心から少し右よりに見える四角いシルエットが、荒浜小学校の校舎です。かつてはここに家並みがあり、こんな風景は見えなかったのです。こんな平坦な場所で津波に襲われる恐怖を、改めて感じました。

広大な暗闇の向こうにきらめく明かりが、人の運命の残酷な差異を際立たせているようでもあります。

次に、荒浜小学校へ向かいました。校舎は、暗闇の中に沈んでいます。被災から1年8ヶ月も経つのに明かり一つない小学校の姿は、外から来た人間にとってはやはり異常な光景です。
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しかしこれが被災地のいまの現実だということを、外の人間も忘れてはいけないのです。暗闇に明かりが戻り、子供たちの歓声が再び響くまでのまでの長い道のりを、すこしずつでも支援して行きましょう。


ここで、本文の主旨とは異なりますが、管理人が触れておきたいことを書かせていただきます。

上の画像の中に、ぼんやりとした光がいくつも浮かんでいます。これは空中を漂うホコリにストロボの光が当たって光っているものです。でもオカルト好きの人に言わせると、これは「オーブ」とか言って、霊が写っているとされてしまいます。

しかしこれはあくまでも物理的な現象に過ぎません。管理人はここで三枚の写真を撮っていますが、他の二枚をご覧ください。前がストロボ最小発光、次が中間発光です。
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校舎の写り具合を比較してください。最小発光では何も見えず、中間発光ではぼんやりと見えて、光の粒が写り始めています。そして最初に掲載したものが、最大発光というわけです。もちろん、撮影後に一切の加工はしていません。

これが自ら発光する霊の姿だと言うのなら、ストロボの発光量など関係なく写るでしょう。発光量に比例して写りこんで来るということが、これがただのホコリであるということの何よりの証明です。写真に詳しい人間には常識なんですけどね。

なぜこんなことをわざわざ書いたかというと、多くの犠牲者が出た場所だからこそ、霊が写ったとかいう次元で騒いで欲しくないからです。

被災地で管理人はいつも、手を合わせてから厳粛な気持ちで撮影します。その写真をオカルトネタにはされたくない。それに惨劇の地で霊が写ったとか騒ぐことは、犠牲者に対してあまりに失礼ではないですか。それもただのホコリを。

しかし、いわゆる「霊感」とは無縁の管理人も死者の霊魂の存在は信じたいと思いますし、だからこそ心から冥福を祈ります。ただし根拠の無い興味本位の見方だけは、根本から否定します。

こう言うと、「じゃあ写真を載せなければいい」というお約束のツッコミが来るわけですが、暗闇に沈んだ荒浜小学校の姿は、この震災の悲惨さを象徴するもののひとつとして、ぜひ皆様にも見ていただきたかったからです。

多くの方が亡くなった場所、しかも静まり返った暗闇の中に立っていると、胸にこみ上げて来るものがありました。怖いとかいう感覚はありません。ただ悔しく、やりきれないのです。


荒浜の近くを車で走っている時、一匹のキツネが道路を横切って行きました。キツネがいそうな山ははるか遠くです。なんでこんな場所にいるんだと驚きましたが、今の荒浜はほとんど無人で、野鳥の楽園のようになっています。

人がいなくて餌があるから、野生動物も来るのでしょう。でも大都市郊外でも「来られてしまう」ということに、被災後ずっと、ほとんど無人に近い被災地の現実があります。

一匹のキツネの姿が、その現実を浮き彫りにしたようでした。


次回から2回に渡って石巻市の大川小学校での実地検証をお送りし、このシリーズを終わります。


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2012年12月18日 (火)

【東名から野蒜へ】宮城・震災から1年8ヶ月【9】

今回は東松島市へ向かいます。

東松島市では2011年11月の訪問時と同じく、JR仙石線の東名(とうな)駅と野蒜(のびる)駅周辺へ行きました。

東名駅の様子は、1年前とほとんど変わっていませんでした。
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しかしこの先も復旧の可能性はありません。この区間の仙石線は山側の新路線への付け換えが決まっているので、いずれ撤去されることになります。おそらくこれが見納めになるのでしょう。

東名駅から東名漁港へ向かう道の両側は、かつて200軒以上の家が並んでいましたが、海抜がほとんど無い地域のため、そのすべてが4~5mの津波に襲われました。

1年前にはかなり残っていた被災家屋も、かなり少なくなってはいます。しかしその他はほとんど変わっていません。荒涼とした無人の草原が広がっているだけで、ここがかつて住宅街だったことも忘れてしまいそうな光景です。

この地帯は震災直後に1m近く地盤沈下して排水が悪くなり、1年前もかなり大きな水たまりができていました。衝撃的だったのは、それが今回訪問時にはさらに大きくなっていたことです。
Photo_2
この写真は住宅街の西側ですが、水たまりというよりほとんど海岸にしか見えません。かつてここは畑が広がっていて、数百メートル先まで陸地だった場所です。すっかり海とつながってしまっています。
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東側は、住宅地だった草地の先に見える灰色の広がりが、すべて「海」です。画像の右側が本来の海の方向です。地盤沈下がさらに進んだのでしょうか。東名地区の住宅街だった場所を細長く残して両側は完全に水没してしまい、かつての住宅街が細長い岬のようになってるのです。

その「岬」の突端にあるのが東名漁港です。復旧に向けての作業が本格化しています。1年前と同じ場所からの画像を比較してみます。
↓2011年11月6日
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↓2012年10月13日
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漁船の数もかなり増えました。とはいえこれらの漁船の多くは、ここから津波で流された船が回収されて来たもののようで、損傷しているものも少なくありません。本格復旧はまだまだ先のようですが、確実に前進を始めていることは感じられました。

次に、野蒜駅周辺に向かいます。野蒜駅も、崩れ落ちた架線ビームなど1年前の姿とまったく変わっていません。ここもいずれ撤去されるので、見納めです。
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駅舎周りの店舗は未だ被災当時のまま、全く片づけられていない場所もあります。その画像は掲載しませんが、片づける人がいないということが何を意味するかを考えると、ただ手を合わせるのみです。

次に、1年前に訪ねた野蒜保育所がどうなっているか見たくて、駅から海沿いへ向かいました。下画像は、1年前の保育所です。赤い線は、この場所での津波水位を表しています。
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近くまで行って、激しく戸惑いました。「陸が無い」のです。
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かさ上げされた道路の周りは完全に「海」になっていて、おそらくこの辺りだったとしか、詳しい場所もわかりません。画像からも、かなり深い水に覆われていることがわかります。やはり沈下がさらに進んでいるように見えます。

この地域が復旧・復興を果たすためには、まだ相当に長い時間がかかるのは確実です。でも、震災から1年8ヶ月(訪問当時)、あちこちで復興への槌音を聞くこともできました。継続的な支援、具体的には寄付や地場産品の購入で、被災地を応援して行きましょう。

なお、隣の松島町は津波の痕跡など意識してもわからないくらいに復旧し、景勝地松島への観光客で賑わっています。観光地松島は、表向きはほぼ「復興」を果たしています。松島を訪問されることがありましたら、ぜひとなりの東松島市の海岸部へも足を伸ばしてみてください。できるだけ見て、知って、伝えること。それが支援にもつながります。

車ならば松島から東名・野蒜まで10分程度です。休止中のJR仙石線代行バスも走っていますが、松島でタクシーをチャーターされる方が便利でしょう。

次は仙台市の荒浜地区へ向かいます。そして、その次に当シリーズ最終回として、石巻市の大川小学校からのレポートをお送りします。

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2012年12月15日 (土)

【女川町立病院へ】宮城・震災から1年8ヶ月【8】

女川町編の二回目です。

今回、管理人は海抜16mの高台上にある女川町立病院(現・女川地域医療センター)にも行ってみました。
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2011年11月の前回訪問時は高台上に被災者と思われる方が見えましたので、そこへのこのこ上がって行く気にはなれませんでした。その頃の町はまだ静まりかえっていて、「見物人」がうろつくような雰囲気ではないと感じたのです。

被災地訪問時は常に防災士の制服を着て、ただの物見遊山だと思われないようにしていはいたのですが、気持ちの上では「所詮は見物人」という負い目のようなものもありました。でも今回は復興への槌音もかなり響きはじめており、その雰囲気にも助けられて病院の高台へ上がって見たのです

実際にその高台に立って海や町を見下ろした感想は、「うそだろ、おい」というひとことに尽きます。16mと言えば、ビルの5階です。その高さにいて、誰が津波に、それも2mの濁流に襲われると考えるでしょうか。それも津波到達からほんの数分で水が来るとは。病院では一階に避難していた方々が二階に上がり切る前に濁流が突入し、犠牲者が出ました。それほど時間が無かったのです。

高台からの画像とYoutube動画をご覧ください。あなたがもしここにいたら、津波が来ることを想像できますか?台風のように大波が押し寄せたのではなく、海全体の水位がここまで上がったのです。
ほとんどの被災建物の撤去が終わった中で、根こそぎ横倒しになった4階建ての女川町交番ビルだけは、そのままの姿で残されています。詳細はわからないのですが、モニュメントとして保存されるのでしょうか。
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※画像のGPS高度計表示には、プラスの誤差が含まれています。

■女川町立病院からの映像はこちらから

「1000年に一度」レベルの大地震とリアス式海岸の津波エネルギー集約効果が重なるとこういうことが起こると、理屈ではわかります。でもそれは普通の人間の感覚をはるかに超越したことだったということを、改めて突きつけられました。

敢えて例えれば、大雨で増水した川の堤防が切れて大洪水になっても、それはある意味で「想定の範囲内」です。でも、その川がある豪雨の日突然、数分のうちに堤防の三倍の水位になったとしたら。そんな「起こるはずの無い」ことがあちこちで起きた、それが今震災なのです。

次回は、訪問順と異なりますが東松島町と仙台市内のレポートをお送りし、大川小学校での実地検証は、当シリーズ最終回として年内最後にお送りします。

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