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ディザスター・エンタテインメント

2016年3月 4日 (金)

【小説・生き残れ。】あとがきと解説(#1151)

22回に渡って再掲載させていただいた「小説・生き残れ。」いかがでしたでしょうか。

この作品は、マニュアル的な意味も持たせたフィクションです。カテゴリを「ディザスター・エンタテインメント」としている通り、あくまで大災害を題材にした「娯楽作品」というスタンスで書きました。岩城衛と三崎玲奈が大地震に見舞われた地下鉄の中で出会い、それから半年とちょっとのうちに、なんと計4回も大地震に遭遇するという、あり得ない設定ではあります。一度の災害を描くだけでは遭遇する状況が限られますので、そこはフィクションであることを最大限に利用しました。

主人公の岩城衛、お気づきの方もいると思いますが、岩手の岩、宮城の城をつなげ、読みは福島県浜通りの旧名「磐城」と同じという姓にしました。ならば名前は「まもる」だろうなという、ある意味安易な命名ですが、管理人なりの、震災被災地への思いを込めました。

三崎玲奈には、特に意味は持たせていません、語感で決めました。芸能人に同じもしくは似た名前もありますが、特に関係ありません。なお、読みは「れいな」です。

ちなみに、ふたりともいわゆるアラサーの独身ですが、管理人がこの作品のターゲットとして想定したのが、その辺りの年齢層なのです。様々な仕事の前線にいて、身軽にあちこちに出かけ、繁華街などに出ることも多い、つまり最も多くの「状況」に遭遇しやすい層と考えて、そのような方に役立つ内容にしようと考えました。

構成的に管理人が狙ったのは、いわゆる災害小説とSFチックなライトノベルの中間辺りの線。あまり重苦しくならないように、状況のリアルさや詳細さにはあまりこだわらず、あくまでも大地震に遭遇したいち個人の心理や行動にフォーカスした構成です。犠牲者の描写も、意識的に避けました。

しかし、地震発生時の状況や、その時に取る行動、玲奈が語る災害の知識などに関しては、現実に即してリアルに描いています。お読みいただいた方が同じような状況に遭遇した時に、彼女たちの言葉や行動を思い出し、それを真似ていただければという思いがあります。


玲奈をはじめ、衛以外の主な登場人物はすべて元自衛隊員ということに違和感を感じられた方も多いかもしれません。管理人は元自衛官というわけではありませんが、自称「自衛隊サポーター」で、現職や予備自衛官とも交流させていただいていることもあり、さらにはご想像の通り結構ミリヲタでもありますので、そちら方面が得意という理由もあります。

要は、訓練された人間が取る的確で敏速な行動と、気持ちは熱いものの、能天気で知識不足の衛ができることとの対比をしたかったことと、的確な判断や行動無くして、非常時に自分を守ること、ましてや他を救うことがいかに困難なことかを描きたかったために、そのような設定にしました。

なお、自衛隊に関する専門的な記述や描写の部分は、あくまで管理人の知識だけで書きましたので、実際と異なる部分もあるかと思います。お詳しい方、その辺は大目に見てくださいw


最終章では、ふたりはついに「東海地震」に遭遇してしまいます。余談ながら、管理人がかつて通った中学校の修学旅行は、静岡方面が恒例でした。しかし当時、東海地震の危険が大きく叫ばれ始めために、東北方面に変更された経験があります(これだけで歳がバレますね)

そんな原体験もある関東在住の管理人としては、大騒ぎしたのにあれからずっと起きない「東海地震」に、ある意味で特別な思いがあります。東京大地震や富士山噴火を描いた方が一般受けするのでしょうが、当初から「東海地震」をメインの題材にすることを考えて、玲奈の出身地を静岡に設定しました。

しかし今にして思えば、管理人が中学生当時も宮城沖地震などが起きていましたし、東日本大震災級が起きてもおかしくない状況もあったわけです。地質学的時間軸では、数十年など一瞬に過ぎません。そう考えると、どこで何に遭うかは本当に運次第であり、それを意識的に避けることなど、少なくとも今の人間には不可能なのだという思いを強くします。我々ができることは、大災害に遭うという前提の意識と備えだけなのです。


管理人の究極の思いは、津波避難所で玲奈の前に立ちはだかる老夫婦の言葉に凝縮されています。なお、空襲からの避難中に背負った赤ちゃんを落としてしまったという話は、当時実際に少なからず起きた実話を元にしています。そのような、命がいとも簡単に消えて行く極限の状況を体験した老人の
「人間の気持ちや力だけではどうにもならないこともあるんじゃよ。無駄に死んではいかん」
という言葉が現実です。いくら備えていても、大災害への対策に絶対は無いのです。

すなわち、最後には可能性の問題なのです。どうにもならない状況に陥る可能性を減らし、どうにもならなくなる前に危険から離れ、どうにもならないと思える状況の中で、一縷の希望を見いだす可能性を大きくすること。それは普段からの正しい意識、正しい知識と正しい行動のみによって実現されるということであり、その象徴として、十分に訓練された元自衛隊員を登場させたわけです。


ラストシーンで、衛は新しい自分と生活に向かうことを決意して、玲奈にプロポーズします。傷つき、生活の糧を失った恵子と須田も元気に立ち上がり、声を合わせて、新しい状況に向かって一歩を踏み出します。「状況開始、状況終了」とは、自衛隊で演習などの開始と終了時に、司令官が発令する用語です。

大災害に打ちのめされた中から立ち上がる人間の強さと、「次」へ繋がる希望を感じさせて終わりにしたかったので、あのようなエンディングになりました。

改めまして、お読みいただいてありがとうございました。


よろしければ、この作品のご感想、ご意見などをコメントかメールでお寄せください。もしかしたらこの四人が、またどこかの「状況」で活躍する時が来るかもしれません。


■当記事は、カテゴリ【ディザスター・エンタテインメント】です。

2016年2月25日 (木)

【再掲載】小説・生き残れ。【22/22最終回】(#1149)

■この物語はフィクションです。登場する人物、団体、設定等は、すべて架空のものです。


地震の発生から6時間ほどが過ぎ、大津波警報が解除された。既に夏の太陽は大きく西に傾き、一見すると穏やかさを取り戻した海を、茜色に輝かせている。しかし沿岸の街は、それまでに3回に渡って押し寄せた津波によって、ほとんど破壊し尽くされていた。

高台の津波避難所に避難していた観光客や地元住民は、少しずつ街へ、いや街だった場所へ戻り始めた。海岸近くの、水に漬かったままのビルの上空で、紺色に塗られた航空自衛隊のヘリコプターがホバリングして、屋上から避難者を吊り上げているのが、遠くに見える。

陽はさらに西に傾き、空が夕焼けに染まり始めた。
「これから、どうしようか…」
呟く衛に、隣で破壊されつくした街を見つめていた玲奈が答えた。
「とりあえず、ここの避難所に行くしかないわね…」
「いつ東京に戻れるかな」
「そうね、早くても3日か4日…もっと長くかかるかも…」
ラジオで聞いた情報によると、東京や横浜も震度5強から5弱の揺れに見舞われ、かなりの被害が出ているらしい。交通機関の復旧の目途も立っていない。この辺りの震度は、6強だったという。

「それまで避難所で、ただ待つしかないのか」
衛が言うと、玲奈は衛の方を向いて、口元に少しだけ笑みを浮かべながら言った。
「大丈夫。十分忙しいから。助けが必要な人が、たくさんいるわ」
衛は、なんだかこんなのはすごく久しぶりだと思いながら、敢えて軽口を返した。
「玲奈の“ひとり災害派遣”は続く、か」
「バカ。わたしたちはひとりじゃないわ」
玲奈は広場の奥にいる、須田と恵子を振り返りながら言った。
「それにもちろん、あなたもいるし」
恵子はもうすっかり元気を取り戻し、起き上がって須田と何やら話している。恵子の左の太ももに巻かれた、白い包帯が痛々しい。衛もふたりの姿を振り返りながら、思った。
《いろんな意味で、でかい夫婦だ…》
身体の大きさはもとより、鍛え上げられた身体と精神、仲間への信頼、そしてなによりお互いを思いやる、大きく深い愛情。

衛は、あまりにも目まぐるしく過ぎたこの数時間の内に、自分の中にひとつの決意が芽生えたことを感じていた。須田夫婦が見せた極限の姿も、その決意に大きく影響しているのは間違い無い。恐らく玲奈や恵子、もちろん須田ほどには無理だろうけど、もっと強くなりたい、人のために役立てるようになりたい、そして、大切な人を守り抜きたいという決意だった。そして衛には、それを実現するために、今ここでやらなければならないことがあった。

太陽が山の陰に落ち、空が茜色に染まっている。辺りが薄暗くなり始めた。玲奈が言う。
「そろそろ行きましょうか。恵子も大丈夫そうだし」
衛は慌てた。せりふ覚えが十分でないままに、いきなり本番の舞台に送り出された役者のような気がする。でも、今しかない。衛は、腹を決めた。

変わり果てた街を見下ろす崖の上で、衛は隣に立つ玲奈に向き直ると、言った。
「れ、玲奈」
声がうまく出ない。玲奈は少し怪訝そうに、衛を見た。
「なあに?」
「おれ、もっと強くなりたいんだ…」
「衛は十分に強いわ」
「いや、ぜんぜんだめだ。もっと、もっとだ」
「どうしたよの、急に」
玲奈はきょとんとしている。

「おれに、もっといろいろ教えてくれ。鍛えてくれ」
玲奈は、なあんだというように笑顔になって言った。
「ええ、いいわ。でもわたし、厳しいわよぉ」
最後はおどけて、少し眉間に皺を寄せて衛を睨むようにした。
「頼む。ただし…」
「ただし…?」
衛は一呼吸置いた。自分の心臓の音が、頭のなかにがんがんと響き渡るようだ。

衛は大きく息を吸い込んでから、続けた。
「これから、ずっとだ」
「え?」
「これから一生、ずっとだ!」
「一生…」
玲奈は目を大きく見開いて、衛を見る。視線が、重なる。
「わからないのか」
「…わからないわけないじゃない…」

玲奈はいきなり、衛の胸に飛び込んで来た。その勢いに衛は2~3歩後ずさりしたが、それでもしっかりと玲奈の身体を受け止め、力を込めて抱きしめた。玲奈は、乾いた泥がこびりついた衛のTシャツに顔をうずめながら、搾り出す様に言った。
「…こんなときに…いきなり…バカ…バカっ…」
「ゴメン…でも、今、伝えたかった」
玲奈は何も答えず、衛の身体に回した腕に力を込めてきた。衛は玲奈の埃まみれの髪を撫でながら、頭の隅で、思った。
《この先、何回バカって言われるのかなぁ…》
いいさ。玲奈にだったら、何千回、何万回だって言われてもいいさ…。

Sunset

少し離れた場所で、ひとつのシルエットになったふたりの様子を見ていた恵子と須田は、ふたりの声こそあまり聞こえなかったが、すっかりと“状況”を理解していた。須田が半ばあきれ顔で言う。
「あーあ、衛くん、ここでキメるかなぁ」
「なんだか、私たちの時と少し似てるかも」
「そうか?」
「演習の真っ最中に、泥まみれの時にプロポーズされた私の身にもなってよ」
「いけなかったか?」
恵子は、笑いながら言う。
「ああいうのは服務規程違反にはならないんですかね?
「泥だらけのプロポーズ、俺たちらしくていいじゃないか」
「衛さんも、これで仲間ね」
「でも大変だぞ、小さな巨人、玲奈班長の旦那になるのは」
「そうかもね」
ふたりは声を殺して少しだけ、笑った。

「さてと!」
しばらくして、須田がわざとらしい大声で言う。衛と玲奈は、びくっとして身体を離した。
「そろそろ移動するぞっ!」
恵子が、ふたりに声をかける。
「玲奈さん、お幸せにっ!衛さん、玲奈さんを泣かせたら、私が承知しませんからね!」
そうは言いながら、恵子には衛が玲奈の厳しさに泣かされているシーンしか想像できない。あたふたした衛が、決まり悪そうに言った。
「お、お手やわらかに…」
玲奈は、少し泣き腫らした目でそんな衛の様子を見ながら、晴れやかな笑顔だ。

手早く荷物をまとめて、近くの中学校に開設されているはずの避難所へ移動する準備が整った。須田が恵子に肩を貸して、立ち上がらせる。生活の糧をすべて津波に流されてしまった須田と恵子には、これから長いこと過酷な日々が続くだろう。それでも、あのふたりならぐいぐい力強く乗り越えて行ける、衛はそう確信していた。そしておれと玲奈もこれから、―ちょっと大変そうだけど―新しい生活を築き上げて行くんだ。

衛は、三人の顔を見回しながら、言った。
「自衛隊ではこういうとき、あれ、言うんですよね」
「…?…ああ、覚えたのね」
玲奈が笑っている。
すぐに衛の考えを理解した恵子が提案する。
「じゃあ、みんなで発令しますか!」
須田も笑顔でうなずく。

玲奈が音頭を取った。
「では、せーのっ!」
「状況ーっ、開始っ!」

少しずれた四人の声が、暮れかけた夏の空に吸い込まれて行った。


【完】


当ブログ開設一周年記念企画で掲載した「小説・生き残れ。」の再掲載は、今回で終了です。お読みいただき、ありがとうございました。後ほど、あとがき的な解説をアップしたいと思っております。また、ご感想、ご意見、ご質問などお寄せいただければ幸いです。


■当作品は、カテゴリ【ディザスター・エンタテインメント】です。

【再掲載】小説・生き残れ。【21/22】(#1148)

■この物語はフィクションです。登場する人物、団体、設定等は、すべて架空のものです。


駿河湾沖を震源とするマグニチュード8.2の地震によって引き起こされた津波は、静岡県の太平洋沿岸部で、高いところで10メートルの波高を記録したらしい。ラジオから次々に各地の被害状況が流れる。玲奈がいるこの街でも津波は高さ6メートルに達し、海沿いの街はほとんど壊滅した。

高台の津波避難所から見下ろす水が引いた後の街は、古い木造家屋のほとんどが土台から引きちぎられるかその場で半壊していて、所々に濁流と瓦礫の衝突に耐えた頑丈な建物が、いくつか残っているだけだ。そして、あちこちの瓦礫の山の上に漁船や自動車が引っかかっている、およそ現実とは思えない光景だった。

水が引いてから30分近く過ぎたが、まだ大津波警報は解除されていない。引き波で海水面が大きく下がり、遠浅の砂浜が海岸から200m以上も露出している。その沖には、陸地から引き波で流された大量の瓦礫が漂い、その中から幾筋かの黒い煙が立ち上っている。海上でも、燃え続けているのだ。

玲奈と須田は、高台の広場に集まった観光客と地元住民二百人ほどに対して、警報が解除されるまで絶対に低地に降りないように伝えて回っていた。津波は、何回にも渡って押し寄せるのだ。容態が落ち着いた恵子と彼女が助けた少年には、看護師の経験があると申し出た地元の中年女性が寄り添って、怪我の手当てをしている。津波が引いた街の惨状を目の当たりにした人々は、最初はろくに言葉が出ず、泣き崩れる人も少なく無かった。でも今は変わり果てた街を眺めながら、周りの人とあれこれ言い合っている。それは想像もしていなかった凄惨な光景を、なんとか現実のものとして受け容れるための、苦痛に満ちた作業でもあった。

衛は崖際の手すりにもたれて、ぼんやりと瓦礫の街を眺めていた。まだローンが残っている自分の車を失ったことも悔しいが、それよりもあまりに凄まじい自然の力と、その中で繰り広げられた、鍛えられ、強い意思を持った人間たちの極限のドラマを目の前で見せ付けられ、自分があまりに何も知らず、何もできない事に腹が立っていた。
玲奈は
『衛が助けてくれなかったら、ダメだったよ』
とねぎらってくれたが、自分の行動は玲奈の勢いに引きずられたようなものだと思っていたから、ほとんど慰めにもならなかった。何より、玲奈が恵子を濁流の中から引っ張り上げようとしているその時、衛は足がすくんで動けなかったのだ。それが、深い自己嫌悪の念に繋がっていた。

《人を守るって、簡単にできる事じゃないんだな…》
そう思いながらふと瓦礫の街に目をやると、海岸の近く ―すっかり見通しが良くなってしまっていた― に、いくつかの人影が見えた。何人か固まって、どう見ても楽しげな雰囲気だ。手に持ったビデオカメラや携帯電話を、瓦礫の山に向けているようだ。さらに目を凝らすと、津波に耐えた鉄筋コンクリート造りの建物から人影が出てきては、瓦礫の上に打ち上げられた漁船を指差して大騒ぎしている。そしてついには、その前に並んで記念写真を撮りだす者も現れた。

《なんだよ、あいつら…》
衛は恵子の横で様子を見ている玲奈を振り返ると、叫んだ。
「玲奈!あれを見てくれ!」
玲奈はすぐに衛の所に駆け寄って来た。そして遠くで騒いでいる人影を認めると、目を剥いた。
「何やってるのよ!まだ津波が来るのに!」
人影は次第に数が増え、みな海岸へ向かって行く。ここから叫んでも、声が届く距離ではない。

その時だった。海を見ていた若者が叫ぶ。
「第二波、来るっ!」
水平線が再びむくむくと盛り上がり、白い波頭が沸き上がった。何人かの女が悲鳴を上げる。また、あの悪夢を見せ付けられるのか。高台にいる皆には、既にわかっていた。水平線に津波が現れたら、3分もしないうちに海岸に押し寄せる。そして今、海岸にいたら逃げ場はほとんど、無い。

もちろん玲奈にもわかっていた。しかし、言った。
「呼び戻しに行かなくちゃ!」
「ダメだ、間に合わない!」
「あのビルになら、間に合う!」
玲奈は衛がつかんだ腕を振りほどくと、崖の下り口へ向かって駆け出した。
「玲奈ダメだっ、行っちゃダメだぁっ!」
衛は玲奈を追った。行かせたら、終わりだ。しかし、全力で走る玲奈に、追いつかない。
「だれかっ!玲奈を止めてくれぇっ!」

玲奈が崖の下り口に達しようとしたとき、その前にふたつの人影が立ちはだかった。しわがれた大音声が響く。
「行ってはいかぁんっ!」
あの、老夫婦だった。玲奈はふたりの前で、足を滑らせながら止まった。衛が追いついて、後ろから玲奈の両肩を掴む。

老人は顔を真っ赤にして、先ほどまでの穏やかな表情からは想像もできない、まるで仁王のような形相で、それでも感情を押し殺して、静かな口調で言った。
「いいか、聞きなさい。わしはこう見えても、今年八十八になる。昭和二十年の空襲で、わしらの子供も仲間も、みんな失ったんじゃよ。あんたのような勇敢な若い人を、もう死なせるわけにはいかん」
玲奈は身体を硬直させて、目を見開いている。老人は続けた。

「わしは理系の学生じゃったから、兵隊には取られんかった。早くにこいつと一緒になったんじゃが、静岡で空襲に遭ってな、逃げる途中でわしの背中から赤ん坊を落としてしまったんじゃ」
老人の眉間に、苦悩の皺が刻まれた。70年近く前の、しかし未だ癒えない悔恨がにじむ。

「赤ん坊がいない事に気がついた時には周りはもう火の海で、とても戻ることは出来んかった。そうしたら、近所のせがれが、探しに戻ると言うんじゃ。そいつはな、身体が弱くて兵隊に丙種でも受からんかった。今の人にはわからんだろうが、兵隊に行けんということは、それはもう肩身が狭いものでな、そいつは常日頃から、何とかしてお国のために役に立ちたいと言っておった」

Airraid

老人の言葉に、衛の脳裏に写真で見た空襲後の焼け野原が蘇る。そういえばこの津波跡は、焼け野原にもそっくりじゃないか…。老人は続ける。
「わしらは必死で止めたが、そいつは『任せてください』と言って、戻って行ってしまったんじゃ。そしてそのまま、戻って来んかった…」
老人の表情から険しさが抜け落ち、目に涙が光った。さらに言葉を続ける。
「人間の気持ちや力だけでは、どうにもならん事もあるんじゃよ。それに、あんたのような人が生き残らんかったら、だれが子供たちやわしらのような老いぼれを守ってくれると言うんじゃ・・・」

老人は一旦言葉を切り、硬直したまま聞いている玲奈の目をまっすぐに見つめてから、続けた。
「だから、わかってくれるな。無駄に死んではいかん。この老いぼれからのお願いじゃ」
玲奈の身体が小刻みに震え始めるのが、衛の腕に伝わって来た。すると、それまで黙っていた老人の妻が、穏やかな表情で、孫を諭すように言った。
「あなたはもう十分にやりましたよ。十分すぎるくらいに。それに、あなたにもご家族があるでしょ。そんなに素敵な彼氏さんもいるし。そんな人たちを悲しませてはいけませんよ。あなたは本当に、ええ本当に立派にやりましたよ」

玲奈の身体の震えが大きくなり、見開いたままの目からは、大粒の涙が溢れ出した。そして玲奈の身体から力が抜け、衛の腕をすり抜けて、その場に崩れ落ちるように、ぺたんと座り込んだ。衛は立ったまま、玲奈の震える背中を見つめている。いつもより、ずっと小さく見える。白いTシャツが、泥だらけだ。今、玲奈にかける言葉は何も、思いつかない。

「…わたし…わたし…」
震える声が、唇から漏れる。玲奈は両手で顔を覆うと、声を上げて泣いた。今までずっと張り詰めていた気持ちが途切れ、抑えていた感情が一気に噴き出した。背中を丸めて、苦しそうにしゃくりあげる。衛は玲奈の横にひざまずき、震える玲奈の肩を優しく抱いた。それしか出来なかった。そして、穏やかな表情で見つめる老夫婦に向かって、深く頭を下げた。

その時、津波の第二波が海岸に到達し、第一波より大きな飛沫を空に吹き上げた。数秒後、辺りの空気を震わす轟音が崖を駆け上がって来て、玲奈の苦しげな嗚咽をかき消した。


☆☆ここまで21回に渡って再掲載して参りました「小説・生き残れ。」、次回はいよいよ最終回です。

■当作品は、カテゴリ【ディザスター・エンタテインメント】です。

2016年2月24日 (水)

【再掲載】小説・生き残れ。【20/22】(#1146)

■この物語はフィクションです。登場する人物、団体、設定等は、すべて架空のものです。


恵子と須田が取り付いた屋根が、ゆっくりと崖に近付いて来る。しかし、崖にぶつかって渦を巻く水流に翻弄されて、回転している。どのタイミングが屋根に取り付いたふたりと崖の距離が最短になるのか、衛は難しい判断を迫られた。屋根がさらに近付いて来る。まだ少し遠いか。しかしこのまま待っていたら、屋根の回転のせいでふたりの位置が崖と反対側になってしまう。衛は腹を決めた。
「玲奈!あと少し!」

衛を振り仰いでいた玲奈は、屋根の方角に向き直ると、叫んだ。
「須田さん!離脱準備っ!」
この距離なら、玲奈の声は確実に届いているはずだ。
数秒後、衛が叫んだ。
「今だ!」
玲奈がすかさず叫ぶ。
「離脱っ!いまーっ!」
須田は恵子の身体を水に引き込み、仰向けに浮かせた。そして顎の下に手をかけると、恵子を引っ張りながら泳ぎ始めた。玲奈は方向を示すために、叫び続けた。
「須田さん、こっちです、こっちです!恵子、がんばれ!こっちだ!」

漂う瓦礫の影からふたりの頭が現れるのを、玲奈は見た
「須田さん!恵子!がんばれっ!あと5メートル!」
須田は必死の形相で泳ぐが、崖近くの渦に阻まれて、なかなか近付かない。ふと、ふたりの姿が、渦の中に消えた。玲奈は息を呑む。嫌だ…ここまで来て、嫌だ…

数秒後、須田の頭が渦の中から飛び出した。だが恵子の姿が見えない。その時、苦痛に歪む須田の口から、野太い、地の底から湧き上がるような叫びが轟いた。
「レンジャァぁぁぁーっ!」

レンジャー教育課程で叩き込まれる叫び。地獄のような状況の中で、苦しい時、怖い時、気持ちが折れそうになった時に、叫べ。叫んで、気合を入れろ。選ばれし者だけが名乗る事を許される、名誉と栄光の称号、レンジャー。おれはレンジャーだ。だから、負けない。須田は目の前の瓦礫を押しのけ、最後の力を振り絞り、水中に沈んだ恵子を引っ張って、ついに崖に取り付いた。

気がつくと、玲奈の周りには衛と数人の若者がいた。衛が連れて下りて来たのだ。すぐに全員で力を合わせて、須田の巨体を斜面に引っ張り上げた。すぐに恵子の頭が水面に現れる。須田の左腕は、しっかりと恵子の腕に絡み付けられている。しかし恵子は、意識が無い。

「恵子っ、わかる!?」
玲奈は恵子の頬を軽く平手で打つが、反応が無い。
「とにかく上へ!」
水から引き上げられて斜面に寝かされた須田は、数秒間激しく咳き込んだものの、すぐに立ち上がった。意識の無い恵子を担ごうとする。玲奈が止めるが、
「大丈夫だ」
の一言で撥ねつけた。鍛え上げられた戦士が、自らの命をかけて他を、それも自分の妻を守り抜こうとする鋼のような意思が溢れている。そしてその意志が、限界を超えさせた…。

恵子を背負った須田を皆で囲むようにして、広場へ上って行く。日陰には、誰かが気を回して、タオルを敷いた寝床が作られていた。須田は恵子をその上に寝かせると、すぐに呼吸と心拍を確認する。顔は真っ白で脈はほとんど触れず、呼吸が止まっている。

須田は玲奈を振り返り、
「CPRを実行する。玲奈、頼む」
と、無表情のままぶっきらぼうにも聞こえる調子で言った。玲奈は恵子の胸の横に膝をつき、大きなタオルを胸の上にかけてから、恵子のブラジャーを外した。そして膝をついて心臓マッサージの体勢を取る。須田は恵子の顎を持ち上げて気道を確保し、マウスツーマウス人口呼吸を準備した。
「現在十二時四十五分 CPR開始」
腕にはめたダイバーウオッチを見ながら、須田は静かに言った。

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玲奈は全身の力を込めて、恵子の胸骨の辺りをリズミカルに圧迫する。
「イチ、ニー、サン、シー、ゴー…」
玲奈の額から汗がしたたる。何度も訓練を繰り返した技術だが、本当に生死の境をさまよう人間に対して行うのは初めてだった。しかも恵子は大切な仲間だ。そして、その仲間を失うかどうかは、今自分がやっていることにかかっている。後は無い。玲奈は一押しごとに、生への願いを込めた。
《恵子、負けないで…!》

圧迫が30回をカウントし、玲奈は手を止めた。すぐさま須田が恵子の鼻をつまみ、唇を重ねて肺に息を吹き込む。須田が二回目の息を一杯吹き込んだ時、突然恵子は激しくむせ返りながら、身体を海老のように丸めた。口と鼻から白く濁った大量の水を吐き出す。なおも激しくむせ返りながら水を吐き出す恵子の身体を、須田と玲奈が横向きにして押さえ、回復姿勢をとらせた。

「もう大丈夫だ」
しばらくして、須田は恵子の首筋に指を当てて脈拍を取りながら、玲奈の目を見つめて言った。
「本当に、ありがとう。玲奈のおかげで助か…」
最後は声にならない。須田の目から、涙が溢れ出した。固まり始めた血がべっとりとこびりついた“和製ランボー”須田の顔は、それでも穏やかな、妻の生還を心の底から喜ぶ、ひとりの夫のものだった。須田はまだ朦朧とした意識の底を漂う恵子の手をしっかりと握りながら、歯を食いしばって、泣いた。

どんなに鍛え上げられた人間でも、自分の死に直面して怖くないわけが無い。大切な人の命の危機に直面して、心が乱れないわけが無い。しかしそれを乗り越える唯一の力は、“絶対に生き残る、絶対に助ける”という、愚直なまでの強い意志なのだと、玲奈は改めて思った。涙が、止まらない。ふと顔を上げると、衛と目が合った。衛の目も、真っ赤に泣き腫れていた。

■当作品は、カテゴリ【ディザスター・エンタテインメント】です。


2016年2月23日 (火)

【再掲載】小説・生き残れ。【19/22】(#1144)

■この物語はフィクションです。登場する人物、団体、設定等は、すべて架空のものです。


男は土砂崩れの斜面もまるで平地のように駆け抜けると、ふたりの元にたどり着いた。
「玲奈、ありがとう!後は任せろ。早く上へ!」
恵子には、
「宿で負傷者が出て、遅くなった。すまん」
と声をかけるが、再び意識が朦朧とした恵子は、須田の方を見て少し微笑んだだけだった。

玲奈は、こんな場面でも思わず挙手の敬礼をしそうになった自分に驚きながら、
「恵子をお願いしますっ!」
とだけ言って、恵子を須田に託した。全力で恵子を支え続けた腕にうまく力が入らないが、四つんばいになってなんとか斜面を登る。上の広場の手すりから皆が乗り出して、大声でふたりに励ましの言葉を叫んでいたことに、今になって気付いた。

玲奈は斜面を登りきり、広場に上がった。衛が駆け寄って来る。玲奈はこのまま衛の胸の中に飛び込んで行きたかったが、その気持ちをぐっと堪えて崖を振り返ると、手すりから身を乗り出した。状況は、まだ、まだ終わってはいない。

須田は恵子のぐったりとした身体を水から引き上げ、うつ伏せにして左肩の上に担ぎ上げた。そして右腕で恵子の身体を押さえ、左腕を崩れた斜面についてバランスを取りながら、慎重に足を踏み出した。2メートルほど登った時、先程まで玲奈が踏ん張っていた石段が、押し寄せる強い水流に一気に飲み込まれて見えなくなった。あのまま須田が来なかったら、恐らく今が、玲奈と恵子の最後の瞬間となったに違いない。

しかし須田は確実に、恵子を担いで崩れた斜面を登ってくる。もう大丈夫だ。恵子の怪我が心配だが、レンジャー資格者は優秀な“衛生兵”でもある。須田が適切な手当てをしてくれるだろう。それに恵子が海の家から背負って来た陸自迷彩色の非常持ち出しリュックには、恵子がアレンジした衛生キットが入っているはずだ。

つい先ほどまでの、八方塞がりとも言えるような状況が嘘のようだ。芝居でもこうはいくまいと思えるくらいの、死の恐怖から生の希望への、鮮やかな場面転換だった。広場に張り詰めた先程までの緊張が幾分ほぐれて、笑顔で声援を送る者もいる。
「がんばれ!」
「もう少しだ!」

しかし、ほぐれかけた空気は再び一瞬で凍りついた。恵子を背負った須田の足が次の一歩を踏み出した瞬間、足元の斜面が小さな崩落を起こした。足を取られた須田は、恵子を背負ったままずるずると斜面をずり落ちて行った。須田はすぐに身体全体を斜面に投げ出し、両手足でブレーキをかけようとするが、ふたりの身体は、そのまま渦巻く真っ黒な水の中に飲み込まれて行った。

あっという間の出来事に、誰も言葉が出ない。数瞬して、玲奈の振り絞るような叫びが空気を引き裂いた。
「いやあぁぁぁーっ!」
玲奈の身体が、がたがたと震え始める。
「うそ…うそ…」
目の前で起きた現実を全く受け容れられずに、玲奈はふたりが消えた渦巻く水を震えながら見つめている。玲奈の横で、衛はこんな理不尽な現実に、無性に腹が立った。そして、手すりから身を乗り出して、渦巻く水に向かって目を剥いて怒鳴った。
「ふざけるなよ!なんだよ!ふざけるなよ!」
自然の猛威の前に、人間の力などこんなものだと言うのか。

Tsunami3

少し離れた場所で、叫び声が上がった。
「あそこにいる!」
声の主が指差す方に、皆の視線が一斉に注がれるが、渦巻く瓦礫しか見えない。
「あそこだ!あの緑の屋根のとこ!」
流されて来た家の屋根の端に、恵子がしがみついている。ぐったりとしていて、屋根の端に両腕をかけているのがやっとの様に見える。しかし須田の姿は見えない。
「恵子っ!」
玲奈が叫んだ時、恵子のすぐ後ろに、頭がぽっかりと浮かび上がった。須田だ。ぐったりとした恵子を、濁流の中から屋根に押し上げたのだ。そうだった。濁流に呑まれても、それで諦めるはずは無かったんだ。恵子も須田も、最後の瞬間まで諦めるはずがない。

しかし須田も負傷しているようだった。水面に現れた頭からすぐに血が噴き出し、顔が真っ赤に染まって行く。須田は恵子を瓦礫からかばうように身体を寄せながら、辺りを不自然に見回している。その様子から、玲奈は須田の意図と状態を悟った。

須田は、つかまっている屋根が崖に近付くタイミングを計っている。そして崖に近付いたら恵子を抱えて屋根を離れ、崖に取り付くつもりなのだ。しかしおそらく、負傷のせいで目が良く見えないに違いない。水面下の両腕は、恵子の身体を支えることで精一杯で、顔に流れる血をぬぐうことも出来ないのだ。

ふたりが取り付いた屋根は、渦のなかでゆっくりと回転しながら崖に近付いて来る。おそらく、チャンスは一回だ。引き波が始まったら確実に、成す術も無く、海へ向かって流される。そうなったら生き残れる可能性は、ほとんど無い。

玲奈は、須田に向かって叫んだ。
「須田さんっ!離脱時期を指示します!そのまま待機っ!」
玲奈の声は須田に届いた。須田はこちらを振り向いて大きく頷いたが、顔の向きが微妙に違う。やはり目が良く見えていない。玲奈は息を呑んで見つめる周囲の人たちに向かって叫んだ。
「しばらく声を出さないでください!お願いします!」
状況を理解した皆は、強張った表情で黙って頷いた。

玲奈は踵を返すと、崖を滑り降りて行った。既に水かさの増加は止まっている。水深は、おそらく4メートルくらいだ。しかし水際まで降りた玲奈は、そこで自分が判断ミスをした事に気付いた。そこからでは、ふたりが取り付いた屋根が見えないのだ。玲奈は、崖の上にいる衛を振り返った。懇願するような目つきだった。衛にはすぐに、玲奈の思いが電流のように伝わった。

おれが、ふたりの運命を握るのか。おれに出来るのか。いや、やるしかない!衛は声を出さずに、思わず右腕をあげて、親指を突きたてた。玲奈の唇が、《おねがい…》と言うように動くのが見えた。


■当作品は、カテゴリ【ディザスター・エンタテインメント】です。

2016年2月22日 (月)

【再掲載】小説・生き残れ。【18/22】(#1141)

■この物語はフィクションです。登場する人物、団体、設定等は、すべて架空のものです。


倒壊したブロック塀に挟まれ、激しく出血している恵子の左足は、ほとんど体重をかけることができない。よたよたと、今にも倒れそうに、それでも歯を食いしばって足を前に踏み出す。“鬼神の形相”だと、息をのんで見つめている衛は思った。自分の身体など省みず、小さな命を救うために死力を振り絞る、正義の鬼神の姿だ。

Tsunami2

崖下まであと50メートル。ついに玲奈が駆け出し、崖を滑り下りた。衛もつられて後に続く。津波がすぐ目前に迫っていることは、もう頭に無い。なんとしてもふたりを助ける、それしか考えていなかった。恵子まであと10mほどに駆け寄ったその時、恵子が進んできた路地の奥に、白い軽自動車が現れた。しかしそれは走って来たのではなく、津波の奔流に押し流されて来たのだという事に、衛はすぐに気付いた。

見る間に路地に瓦礫が押し寄せ、真っ黒な水が一気に水深を増しながら、近づいてくる。真っ黒な水はそれ自体にまるで意思があるかのように、獲物を前にして舌なめずりするかのように、近づいてくる。残された時間は、あと十数秒。

最後の力を振り絞って、恵子はほんの数歩だけ、よたよたと走った。そして駆け寄る玲奈と衛に向かって、手負いの獣が最後の咆哮を上げるように叫んだ。
「うけとれえぇぇっ!」
そして少年をふたりの方に投げ出しながら、そのままうつ伏せに倒れこんだ。

宙を舞った少年の身体を、衛が受け止めた。その場に尻餅をつきそうになったが、なんとか踏ん張った。
「衛、早く上へっ!」
玲奈に言われ、衛は片腕で少年を抱えて階段を、そして崩れた崖を這い登った。
「恵子っ!」
玲奈は倒れた恵子に駆け寄ると、恵子の腕を自分に肩に回して立たせようと
する。しかし力が抜け切った恵子の大きな身体を持ち上げる事ができない。視線の隅に、濁流が迫る。

玲奈は恵子の腕を肩にかけ、空いた右腕でショートパンツのウエストを掴むと、中腰のまま恵子の身体を引きずり始めた。そして石段にたどり着くと、恵子の身体を仰向けに石段にもたせかけ、自分は恵子の頭の上に腰を下すようにした。そして両脇の下に腕を差し込むと、石段に両足を踏ん張って、恵子の身体を一段ずつ引っ張り上げ始めた。

いくら今でも鍛えているとはいえ、体重差が30キロ近くある恵子の身体を引き上げながら、玲奈の身体は軋んだ。しかし、休んでいる時間は全く無い。2メートルほど引き上げた時、真っ黒な水が瓦礫と共に階段の下に押し寄せた。見る間に水かさが増し、恵子の下半身が飲み込まれる。水は山にぶつかって渦を巻き、恵子を押し流そうとする。玲奈がどんなに力を振り絞っても、それ以上引き上げられない。水かさはさらに増して行く。

その時、朦朧としていた意識が戻り、状況を認識した恵子が叫んだ。
「…班長っ、手を離してくださいっ!」
玲奈にもわかっていた。このままここにいたら、せりあがって来る水と瓦礫に飲み込まれる。そうなれば、ふたりとも助かる道は無い。そして自分が助かるためには、恵子を離すしかないと。それでも玲奈は叫んだ。
「バカっ!一緒に帰るんだよっ!」
水かさはさらに増し、玲奈の両腕の力も限界になろうとしていた。一瞬でも力を緩めれば、恵子は瓦礫に飲み込まれる。玲奈は歯を食いしばって、力を込め続けた。


『限界は、超えられる。それを可能にするのは、気持ちの力だ。』
玲奈がまだ陸自に入隊したての頃、教育隊の基礎訓練で音を上げた玲奈に対して、訓練教官の三曹が言った言葉が甦ってくる。

…私はそれを信じて、今までいろいろな苦しい時を乗り超えてきた。1年あとから後輩の恵子も陸自に入隊し、私と同じ隊に配属になってからは、今度は玲奈がその言葉を恵子にかけながら、一緒にがんばったんだ。だから、ここで負けるわけにはいかない…

しかしどんなに気力を振り絞っても、恵子の身体はそれ以上は上がらなかった。水かさはさらに上がり、石段を踏ん張る玲奈の足にまで届き始めた。このままなら、あと1分も持たない。それ以前にも、流されて来る大きな瓦礫に直撃されたら、終わりだ。仰向けになった恵子の胸の上にまで、水が上がってきた。もう、どうしようも無いのか。


その時、玲奈の視界の片隅で、何かが動いた。人影の様だった。それは何か叫びながら、高台の避難所に続く低い木が生い茂った足場の悪い斜面をトラバースしながら、信じられないスピードでこちらに向かってくる。

身長が190センチに迫ろうかという大男だった。身長だけでなく、広い肩幅に分厚い胸、丸太のような腕というプロレスラーのような身体を、黒いランニングシャツとグリーンのバミューダパンツからあふれ出させている。しかしその体躯に似合わず、急斜面の低い木を飛び越え、岩を左右にかわしながら、猿のような軽快さで駆け抜けて来る。玲奈はその男の発する叫び声をはっきり聞き取った時、すべてを理解した。その男は、
「ケイコ!負けるな!」
と叫んでいた。
玲奈は、葉を食いしばって恵子の身体を支えながら、心の中で叫んだ。
《須田一尉!》
恵子の夫で、ふたりの元訓練教官。その後富士教導団のレンジャー課程教官を経て退官した、『和製ランボー』こと須田元一等陸尉が映画のようなタイミングで、とにかく現れた。この場面で、これ以上頼れる人はいない。


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2016年2月15日 (月)

【再掲載】小説・生き残れ。【17/22】(#1139)

■この物語はフィクションです。登場する人物、団体、設定等は、すべて架空のものです。


「自分が行きます!」
叫んだのは恵子だった。皆が恵子を見たとき、すでに恵子は崖に向かって駆け出していた。そして濛々を土煙を上げて崖を滑り下り、細い路地を子供に向かって駆けて行く。速い。

高台から皆が、声の限りに叫び出す。
「急げ!」
「がんばれ!」
「早く!」
しかし玲奈は、衛の隣で落ち着いた表情のまま黙っている。
「…間に合うのか?」
衛が言うと、玲奈はちらっと衛を見ただけで、言った。
「彼女なら大丈夫。津波は、あの辺なら時速100キロ、速くても150キロで、これからだんだん遅くなる。海岸に着くまでにあと2分はあるわ。恵子なら、大丈夫」
「ならいいんだけど…なんでそんな事知ってるんだ?」
「自衛隊は災害派遣も仕事です。ちゃんと勉強するのよ」
少しだけ得意気に言った玲奈は、視線は駆けていく恵子に向けたまま、何故か少しおかしそうに微笑みながら続けた。
「彼女、昔なんて呼ばれてたと思う?」
「なんて?」
「女レンジャー」

陸上自衛隊の“レンジャー”とは、能力の高い隊員の中から選抜され、サバイバル技術などの厳しい訓練課程を修了した者だけに与えられるエリートの称号だが、女性隊員にはその門戸は開かれていないという。しかし恵子は隊内でレンジャー並みと評される高い能力を示したというのだ。だから敬意を込めて、“女レンジャー”。
衛は玲奈の表情につられて、つい軽口が出た。
「女ランボーじゃないのか」
「そう呼ぶ人もいたのは確かね」
大当たりだ。

見る間に恵子は少年にたどり着き、その脇にしゃがんで一声かけると、一動作で肩に担ぎ上げた。そしてすぐに今来た路地を駆け戻り始める。少年を担いでも、そのスピードは全く落ちない。高台の上から見下ろすだれもが、これなら十分に間に合いそうだと息を抜いた時、山全体がズシンと震え、背後の崖から小石がぱらぱらと落ちてきた。玲奈はすぐに反応して皆の方を振り返ると、
「余震です!崖から離れて!」
と、叫びながら駆け出した。

玲奈は背後の斜面を少し登った所で恐怖で固まっているカップルに駆け寄ると、ふたりの手を取って広場に下ろした。そしてすぐに老夫婦に駆け寄り、いたわるように背中を押しながら、広場の真ん中へ促した。そうするうちにも揺れはどんどん大きくなり、山がゴーっとうなりを上げた。皆は広場の真ん中に集まってしゃがみ込み、女が悲鳴を上げる。今までで最大の余震だ…周囲をすばやく警戒しながら、玲奈は思った。山が崩れなければいいが…しばらくして、揺れが収まり始めた。もう大丈夫だ…

…恵子!
玲奈は崖に駆け寄って下を見下ろし、息を呑んだ。恵子は路地を塞ぐように倒壊したブロック塀に、下半身を挟まれて倒れていた。子供を守るために、判断がわずかに遅れたのか。横に座り込んだ少年の泣き声が、海からの弱い風に乗ってかすかに聞こえて来る。津波避難所の崖下までの距離は、約150メートル。玲奈はすばやくそう判断した。

Tsunami1_2

その瞬間、海岸に到達した津波の第一波が消波ブロックにぶつかり、高さ10メートルにも達しようかという巨大な飛沫を空中に吹き上げた。数秒遅れて、ドーンという腹に響く大音響が空気を震わせる。今から崖を下りて行っても、津波がここまで押し寄せるまでの間に重傷の恵子と少年をかついで戻る時間はおそらく、無い。

「けいこおぉぉぉーっ! 立てぇぇーっ!」
玲奈は声の限りに叫んだ。怪我を気遣ったり、状況を確認している暇は無い。そう、わたしたちはいつもこうやって、苦しい訓練を一緒に乗り越えて来た。訓練ではどんなに苦しくても、多少ケガをしていても、恵子はいつも大声で『平気っす!』と言い放って立ち上がった…お願い、立って…。

海からの逆風を突いて、玲奈の声が恵子に届いたのかどうかはわからない。しかし恵子は、動き始めた。頭を上げると、こちらに顔を向けて、何か言うように口が動いた。声は聞こえなかったが、玲奈にはわかった。“平気っす”恵子は、いつもの大声では無いが、確かにそう言った。

恵子は両腕で匍匐するようにして、崩れたブロックの下から這い出し始める。歯を食いしばり、表情が歪んでいるのがここからでもわかる。そのままなんとか身体を引っ張り出す事に成功したものの、すぐには立ち上がれない。ごろんと仰向けに転がると、ゆっくりと上体を起こした。
玲奈が叫ぶ。
「津波が到達ーっ!時間が無いっ!」
すると恵子はこちらに背を向けたまま右腕を真上に上げると、空に向かって親指を突きたてた。玲奈の声は届いていた。そして恵子は“大丈夫”とサインを送ってきた。

その時、砂浜を駆け上がった津波が、海岸の家並みを呑み込み始めた。土台から引きちぎられた家が波に押し上げられ、こちらに向かって押し寄せて来る。津波が家並みを引き裂く大音響が聞こえたのか、恵子の動きが少し早くなった。それでも、少しだ。かなりダメージを受けている。玲奈が叫ぶ。
「けぇいこぉぉー、がんばれぇっ!」
それには答えず、恵子は両手を地面につきながら、よろよろと立ち上がった。左足の太ももから、激しく出血している。

津波は陸に到達してその速度を落としたものの、時速数十キロで家を押し流しながら、近づいてくる。恵子は座り込んで泣いている少年によろよろと近づくと、腕を引っ張って立ち上がらせた。そして自分の胸に抱え上げると、こちらへ向かって歩き始めた。


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2016年2月14日 (日)

【再掲載】小説・生き残れ。【16/22】(#1138)

■この物語はフィクションです。登場する人物、団体、設定等は、すべて架空のものです。


玲奈が率いる、30人ほどに人数が増えた隊列は、何十年も前から建っていたような古い家が何軒かぺしゃんこに潰れている、小さな集落を抜ける。玲奈はそこにいた屈強そうな中年男に声をかけた。
「この辺は…大丈夫ですか?」
潰れた家から誰かを助け出したのだろう。中年男は埃まみれになった顔をほころばせながら言った。
「ああ、みんな出られた。あんたらも早く山へ行かないと」
「はい!」
玲奈の顔が輝いた。

Evacuate

隊列は集落の裏手に迫った山肌を切り開いて造られた津波避難所の下へ到着した。斜面を上る30メートルほどの急な石段は、恵子の報告の通り、下から10メートルほどの部分から上が、崩れた土砂に覆われて見えなくなっていた。赤茶色の土で覆われた崩落斜面は、四つんばいにならないと登れないくらいの傾斜だ。足場も悪い。

《これは年寄りにはきついな…》
衛が思った時、崖の上から恵子の大声が降ってきた。
「はんちょーうっ!」
大きく手を振ると、赤いザイルの束を投げ落とす。ザイルはするするとほどけて、石段の下まで届いた。

玲奈は恵子を見上げて黙ってうなずくと、率いてきた集団に向かって言った。
「登れそうな方は、このロープを手がかりに先に登ってください。あなたとあなた、あなたは手伝ってください」
と、3人の若い男を補助者に指名した。指名された男たちは、緊張した顔で黙ってうなずく。最後の“あなた”は衛だ。

また、上から恵子の声が降ってくる。
「津波到達予想まで、あと3分っ!」
「了っ!さあ、急ぎましょう!まず、あなたたちから!」玲奈は若いカップルを指名した。
「途中でサンダルや靴が脱げても、止まらずに上まで登ってください!いいですね!」
体力のある者は、途中で少し足を滑らせたりしながらも、するすると斜面を登って行く。幼児は父親が背負い、背負う男がいない子供は、補助の若者が背負って登った。しり込みする中年女性は玲奈が一緒に励ましながら登り切り、すぐに玲奈は土埃を巻き上げながら下りてきた。

最後に、衛、玲奈と70代後半くらいに見える老夫婦が残った。玲奈が自衛隊だと衛に言った男と、その妻だ。
「お待たせして申し訳ありませんでした!」
玲奈はきちっと45度の礼をした。老夫婦はおだやかに微笑んでいる。玲奈は衛を向いて言った。
「あなたはご主人と一緒に先に上って」
「わ、わかった」

衛は老人を先に行かせ、うしろからその腰を押し上げるようにしながら、なんとか登り切った。玲奈は自分の腰のパレオを取り、折りたたんで老婦人の腰の後ろに当てると、ザイルの端をその上から巻きつけて、あざやかな手つきで身体の前に結び目を作った。
「ちょっと痛いかもしれませんが、少しだけ我慢してください」
「いいのよ。これくらい大丈夫」
老婦人が答えると、上から見下ろしている恵子に向かって右腕を上げ、握った拳の親指を立てた。

うなずいた恵子は両腕でたぐるようにして、ザイルをゆっくりと引き上げ始める。玲奈は老婦人のすぐ後ろについて、身体のバランスを崩さないように、足を滑らさないように気をつけながら押し上げる。何度も
「痛くないですか?」
「少し休みますか?」
「もう少しです!」
と、声をかけている。途中で何度か休みながら、ついにふたりは高台の広場へたどり着いた。周りにいた人々から拍手が巻き起こる。

恵子が玲奈に駆け寄り、すっと背筋を伸ばして言った。
「お客様の避難、完遂できました!ご協力ありがとうございました!」
玲奈は穏やかに微笑みながら答える。
「間に合ったわね。ありがとう」
恵子は挙手の敬礼をしそうな勢いでさらに背筋を伸ばすと、もう一度
「ありがとうございました!」
と言って45度の礼をした。拍手が大きくなる。

恵子は白い歯を見せて笑いながら言った。
「さすが玲奈班長です」
「いえいえ。わたしたち、がんばったもんね、あの頃」
「そうですね!がんばりました」
「でも…」
「は?」
「…やっぱりその“班長”はやめて…」
玲奈は視線だけで衛の姿を探しながら言った。

玲奈の背後で拍手をしながら、ふたりの遣り取りを聞いていた衛は、玲奈の困った様子を見て声をかけた
「玲奈!」
すぐうしろから聞こえた衛の声に、玲奈はびくっと肩をすくめて振り返った。つい先ほどまでの毅然とした玲奈ではなく、彼氏に隠し事がばれた女の子の困り顔になっている。衛が穏やかな表情で続ける。
「いいんだよ。もう知ってる。おれの彼女は自衛隊出身!」

「え…どうして…」
「あの人が教えてくれたんだ。おまえの彼女は凄いぞ、って」
衛は少し離れた日陰で腰を下ろしている、あの老夫婦を指差した。老夫婦は微笑みながらこちらを見ている。
「最高にカッコよかったよ、玲奈」
「…そんな…」
「でも、なんで隠してたんだよ」
「なんでって…」

その時、誰かが叫んだ。
「来たぞ!」
全員の視線が、眼下に続く家並みの向こうに見える海に注がれる。真昼の太陽に照らされてきらきらと輝く水平線がむくむくと盛り上がり、波頭が霧のように舞い上がるのが見えた。誰も、言葉を発しない。さわやかな夏の日にはあまりに不似合いな沈黙が、辺りを支配した。

沖から伝わって来るゴーっという海鳴りが皆の耳に届いた時、また誰かが叫んだ。
「子供が、子供がいる!」
全員の視線が、今度は家並みの路地を走る。
「あ、いた!」
300メートルほど離れた路地に、小学校低学年くらいの男の子だろうか、よたよたとこちらに向かっているのが見えた。怪我をしているらしく、足元がおぼつかない。


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2016年2月13日 (土)

【再掲載】小説・生き残れ。【15/22】(#1137)

■この物語はフィクションです。登場する人物、団体、設定等は、すべて架空のものです。


浜辺から海沿いの県道に出ると、道路はあちこちで大きく波打ったりアスファルトにヒビが入ったりしていて、普通の車はとても走れそうもない。車高の高い衛の大型四駆車でも困難だろう。渋滞が無くてもすぐに身動きが出来なくなっていたはずだ。

道路沿いの古い家が倒壊して道路を半分塞いでいたり、電柱が大きく傾いて、電線が垂れ下がっている場所もある。街の方からは、火災と思われる黒煙が上がり始めている。
その時、玲奈が手に持ったトランシーバーから恵子の大声が飛び出した。
《サクラカラナデシコ カンメイイカガ オクレ》
え、なんだ?
玲奈はすかさずトランシーバーを口許に寄せ、反応する
「ナデシコ感明良好 送れ」
玲奈…なんだそれ…?

《○○町郵便局付近、道路陥没のため通行不能 ××スーパー前を北進し、 東方より迂回されたし 送れ》
「ナデシコ了 送れ」
《なおラジオ情報により、当地への津波到達予想時刻は 現在時よりヒトマル分後、ヒトフタサンマル時を予期せよ なお予想高さにあっては5メートル以上 送れ》
それを聞いた皆がざわめくが、玲奈は全く意に介さずに返信する。
「ナデシコ了 自身の安全を最優先せよ 送れ」
《サクラ了っ! 終わりっ!》

妙な言葉を使うふたりのスピーディーで無駄の無い交信は、それが経験に基づいたプロのものであることは、衛にもわかった。これが玲奈が言いかけたナントカ国家公務員…なのか?すぐにでも聞いてみたかったが、列の先頭を歩きながら時々後ろを振り返る玲奈の姿はあの毅然としたオーラに包まれていて、余計な質問など跳ねつける緊張感に満ちている。

だがそれどころではない。5メートル以上の津波が10分後に来るという。しかし本物の津波など一度も見たことが無いし、台風で大波が堤防に当たってくだけるみたいなイメージしかない。海岸から山に向かって進み続け、もうだいぶ高度を稼いでいるが、ここでもまだ危険なのだろうか。

その時、衛の脳裏に今朝見た『想定津波浸水高さ5m』の標識が甦った。車の中から見上げた水深5メートルを示す赤線の位置…。これは只事ではない。一刻も早く、少しでも高い場所に逃げなければ。衛は先頭の玲奈に叫んだ。
「玲奈、急ごう!」

しかし玲奈は振り返りもせずに、左手を軽く上げて
《わかった》
というような合図を返しただけだった。でもその直後、突然振り返って叫んだ。
「みなさん走って!早く!」
突然の事に皆訳もわからず、それでも玲奈の真剣な声につられて走り出した時、地面が突然歪んだ様に感じた直後、縦横に振り回すような余震が来た。揺れに足を取られてよろめく者もいたが、強い揺れの中をなんとか転ばずに駆け抜けた。衛も目の前にいた幼児を抱え上げて走った。

Crush

すると今駆け抜けて来たまさにその場所で、道路脇の古い木造の商店が道路に向かってメリメリと傾き、道路の三分の二を塞ぐように倒壊して濛々と土ぼこりを巻き上げた。大音響に皆が立ち止まって振り返り、ついで皆が玲奈を見た。皆が呆然とする中、若い男が玲奈に声をかける
「お陰で助かりました。でも、なんであれがわかったんですか?」
玲奈はなおも周囲に視線を走らせながら答えた。
「感じたんです。たて揺れを。で、傾いた家があったから…」

その遣り取りを聞いていた老人が、衛を振り返って言った。
「あんたのお連れさんは頼もしいのぉ」
「いえ、まあ、あ、ありがとうございます…」
まるで自分が頼もしくないと言われているような気がしないでもない。でも確かに玲奈は時々、野性的とも言える鋭さを見せる。今がまさにそれだ。衛は、ふたりが初めて出会った、真っ暗な地下鉄の中を思い出した。あの時から、何回バカって言われたかな…などと余計な事を考える。

老人は言葉を続けた。
「しかしさすがに鍛え方が違うのぉ、自衛隊さんは」
「…じ…じえい…?」
「そうじゃろ?あの無線交信は、陸さんじゃろ?」
「え…は、は…はぃ…」

周りはかなり埋まっているものの、真ん中の部分だけがほとんど空白のジグソーパズルのピースが衛の頭の中で飛び交い、一瞬ですべて正しい位置にはめ込まれたような気がした。完成した画は、まだらの迷彩服にヘルメット姿でにっこりと微笑む玲奈の姿だ。今まで玲奈に感じてきた多くの疑問が、一瞬ですべて解けた。今も見せている毅然とした力強さと鋭い判断力は、自衛隊で積み重ねた訓練で培われたものだったのだ。でも、なんでそんなこと隠していたんだろう…。

衛は左右に視線を走らせながら列の先頭を行く、玲奈の後ろ姿を見つめた。
《玲奈、すげえよ…》
そう思ったとき、玲奈が半分だけ後ろを振り返りながら言った。
「避難所まであと200メートルくらいです。慌てなくても大丈夫で…」
言い終わらないうちに、玲奈が左手に持ったトランシーバーから、恵子のかすれ気味の声が流れ出た。
《サクラからナデシコ 送れ》
「ナデシコ感明良好 送れ」
《サクラ第一目標地点に到達するも、小規模の山体崩落により階段使用不能。目標地点第二に変更の要あるか? 送れ》

玲奈は一瞬考えてから、トランシーバーを口元に寄せた。
「ナデシコ了 山体の登攀は可能か? 送れ」
《…補助等あれば可能と判断する 送れ》
「崩落部分の状況はいかが? 送れ」
《さらに崩落の危険は小さいと判断する 送れ》
「ナデシコ了 目標は変更せず。サクラはそのまま待機、登攀補助に当たれ。本隊はふた分以内に到達する 送れ』
《サクラ了 終わり!》

玲奈は足を止めずに、後ろに続く集団を振り返りながら言った。表情が少し、険しい。
「お聞きの通りです。でも、我々…私たちが補助します。少し急ぎましょう!」
玲奈は前に向き直ると、歩みを速めた。


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2016年2月12日 (金)

【再掲載】小説・生き残れ。【14/22】(#1135)

■この物語はフィクションです。登場する人物、団体、設定等は、すべて架空のものです。


その時、それと知らなければ、何かお知らせのチャイムにしか聞こえないような音が、波の音に混じってかすかに聞こえてきた。玲奈はびくっとして上体を起こすと、海の家を振り返る。すると開け放たれたガラス戸から、恵子が店のカウンターに置かれたマイクスタンドを引っつかむのが見えた。すぐに軒先に吊るされたラウドスピーカーから、恵子の声が大音量で叩き出される。
《緊急地震速報が出ました!すぐに海から上がってください!地震が来ます!すぐに海から上がってくださいっ!

真っ黒に日焼けしたライフガードの男が、監視やぐらの上から弾かれたように飛び降りて波打ち際へ駆け寄ると、海に入っている人に向かって大きく手を振りながら、トランジスタメガホンで叫び始める。
《地震が来ます!海から上がってください!すぐに!地震が来ます!》
続いて店のスピーカーからは、大音量のサイレンが鳴り響いた。

「玲奈…どうしよう…」
突然のことにうろたえる衛に、砂の上に片膝を立てて周囲をすばやく見回しながら、玲奈は言った。
「今はこのまま待機。砂浜にいる方が安全。荷物まとめて…」
玲奈が言い終わらないうちに、ズシンという衝撃を感じた。それがどんどん大きくなって行く。岬の崖から小さな岩がばらばらと落ちて、海面で水しぶきを上げる。玲奈は海の家の方に振り返ると、鋭い声で叫んだ。
「恵子!退避!」
すぐに大声で返事が来る。
「退避誘導中っ!」
恵子は店の中にいた数人の客を屋外に誘導しているようだ。

下からの突き上げが収まらないうちに、振り回すような横揺れが来た。
《近い…》
緊急地震速報から数秒で最初のたて揺れである初期微動が来た。それもかなり強い。しかもその後にやって来る横揺れ、主要動との時間差がほとんど無かった事を感じた玲奈は、震源地がここからそれほど遠くないと判断した。ということは、ついに“あれ”が来たのか…。玲奈の頭の中に、次に取るべき行動が電光のように走った。

横揺れが始まってから数秒後、最大の地震波が到達した。衛は、四つんばいになったまま動けない。砂浜が風をはらんだ巨大な旗のように波打って見える。並んだ海の家が揃って身もだえするようにねじれ、大きなガラス窓が鋭い音と共に砕け散った。周囲の空気を震わせるドーンという大音響に振り返ると、海の近くにまで迫った山の斜面が幅20mくらいに渡って崩れ落ち、濃い緑の山肌に赤茶色の爪跡が刻まれた。青空に、濛々と土煙が沸き上がる。

海の家の中で一番簡単な造りの一軒が、海に向かって開いた縁側に向かってメリメリと押しつぶされるように倒壊して行くのを、四つん這いのままの衛は口をぽかんと開けて見つめていた。現実感がまるでない。一分ほど経って、揺れが収まって来た。玲奈はさらに周囲の状況を観察する。ライフガードが、波打ち際で座り込んでしまった家族連れを励ましている。倒壊した海の家の周りでも、慌しい動きは無い。どうやらこの浜で重傷者は出ていないようだ。良かった。

Lifesaver

「衛、行くわよ!」
「え、どこへ?」
地震の揺れが収まったので、衛はもうすっかり危険が去ったものと息を抜いていた。
「津波が来るわ。すぐに高台へ避難するよ!」
半信半疑ながらビーチパラソルを畳もうとした衛に、玲奈は怒鳴るように言った。
「そんなのいい!持てるものだけ持って!時間が無いっ!」
ふたりが恵子の店まで砂浜を駆け上がって来ると、店の裏手の方から、ボリュームを一杯に上げたラジオの音が聞こえてきた。そこから流れる緊張した男性アナウンサーの声に、玲奈は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

『…ただいま、神奈川県、千葉県、静岡県、愛知県、三重県の太平洋沿岸に大津波警報が発表されました…巨大な津波が予想されます!命を守るために、すぐに高台へ逃げてください!』
ついに、この時が来た…。防災無線のスピーカーから、けたたましいサイレン音が鳴り響き始めた。砂浜の監視やぐらには大きな赤い旗が掲げられ、ライフガードがトランジスタメガホンで叫んでいる。
『大津波警報が出ました!すぐに高台に、山に避難してください。時間がありません!大きな津波が来ます!すぐに避難を…』

「恵子!」
玲奈が叫ぶと、店の裏手の駐車場から
「はいっ!こちらです!」
と返事が返ってきた。ラジオは恵子が持っているらしい。貼り付けたガムテープに“非常持出”とサインペンで書かれた、迷彩色の大型リュックを背負った恵子は、既に駐車場に店の客を集めていた。皆、水着の上にシャツなどを羽織っただけだ。着替えている時間は無い。衛と玲奈もすぐに水着の上にTシャツだけ着て、マリンシューズを履いた。玲奈はいつのまにか腰のパレオを外して、一本にまとめてTシャツの上から腰に巻きつけている。

衛は当然車で避難するものだと思っていたので、玲奈に言った。
「玲奈、早く車に乗って…」
言い終わらないうちに玲奈が言った。
「車はダメ!身動きが取れなくなる」
「でもおれの四駆なら水にも強いし…」
「渋滞したらどうするの!それに、車なんてタイヤ半分くらいの水で流されるのよ!」
初耳だった。
「じゃあ、車は水浸しに…?」
「バカっ!車と命のどっちが大事なの!」
玲奈が衛に初めて見せる、凄まじい剣幕だった。衛は玲奈に気圧されて、腹をくくるしかない。確かに、生き残れなければ車どころでは無い。しかしまだ、半信半疑でもあった。

恵子が玲奈の脇に駆けて来て、ピンと背筋を伸ばして言った。
「自分は先行して、目標地点までの経路を偵察します。班長はお客様の誘導を願います。目標地点は…」
「もちろん、わかっているわ」
「では、これを」
恵子は、玲奈に黄色い小電力トランシーバーを渡した。
「呼び出し符号は…」
そう恵子が言いかけると、玲奈はかすかに微笑みながら、言った。
「…当然、あれで」
「リョウっ!では」
「状況開始っ!」
玲奈が鋭く言うと、恵子は一瞬白い歯を見せて笑い、回れ右をして山へ向かって駆け出した。重そうなリュックをものともせず、大柄な身体からは想像できないリスのような機敏な動きだと、衛は思った。それにしても、さっきの妙な遣り取りはなんだ?

玲奈はすぐに、十数人ほど集まっている客に向かって、良く通る声で言った。
「これから津波避難所へ移動します。距離は約1キロ先の、山の中腹です。私について来てください!」
そして衛に向かって言う。
「衛は列のうしろにいて。途中、急な階段があるから、遅れる人がいないか、いたら手を貸してあげて」
「わ、わかった」
客の中には年配の夫婦や、小さな子連れの家族もいる。大津波警報発表から1分後、津波避難所に向かう隊列が動き出した。

海から県道に上がる途中では、古い木造の納屋がぺしゃんこに潰れていた。玲奈はだれかを見かけるたびに、
「大きな津波が来ます。すぐに山へ避難してください」
と声をかけている。そのまま玲奈たちの隊列に加わる者もいて、だんだん人数が増えて行った。

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