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防災の心理

2014年9月10日 (水)

【防災の心理39 最終回】あなたがやらなけれは誰がやる?

【防災の心理】シリーズを、これまで38回に渡ってお送りしてきました。39回目の今回は、最終回としてまとめをお送りします。

当シリーズでお送りして来たのは、個人として効果的な災害対策を進めようとしたり、いざ災害の現場に放り込まれてしまった時に、人はとにかくやたらと心理的な壁に囲まれてしまうということです。

それに気付かないと、いつの間にか対策のピントがズレたり間違った方針や行動に繋がりやすく、その結果はイザ災害に直面した時に備えが役立たないだけでなく、最悪の場合は『生き残る』可能性を減らしてしまうことになってしまうのです。

元来、個人の災害対策は”面白くなくて、やりづらくて、間違えやすい”ということを、まず知っていただきたくて、このシリーズを書きました。たまたま目に付いた、やりやすいことをやっているだけでは、効果的な対策や行動はできないのです。そこをしっかりと認識していただきたいと思います。

交通事故を起こさないためには、スピードを出しすぎない、交通ルールを守る、周囲を十分に確認するなどの”わかりやすい”対策で、その目的の大半を達成することができます。それでも起きる事故はありますが、その確率を確実に減らすことができます。

一方、災害はその態様があまりに多岐に渡り、対策の効果を計ることも滅多にできないので、そこに”わかりやすい”方法はありません。そして直接生命に関わるために、誰もが直視したくないものです。その中で唯一わかりやすいのは、モノの備蓄だけです。

しかしその備えを活かすためには、まず災害から『生き残る』ことが必要です。そこが一番大切な部分ですが、そこに立ちはだかる『心理の壁』は高く、相当な意識と覚悟が無いと、乗り越えることができないのです。

当シリーズで示したような、様々な『心理の壁』を、ひとつひとつ乗り越えようと思っても、それらは人間の本能に根ざしたものですから、なかなか難しい。しかし乗り越えなければ、生き残れない。ならばどうするか。

多くの人にとって、もし災害対策が職務や義務であったなら、心理がどうのなど関係無く、最も効果的な方法を考え、実行するでしょう。自分の役割だと認識すれば、例え苦しくても「自分がやらなければ誰がやる?」くらいの気持ちになるはずです。

できることなら、それくらいの気持ちで個人の災害対策も進めたいものですが、そこに職務や義務という縛りが無いと、なかなかそうは行きません。でも、つまるところはどうやって「自分がやらなければ誰がやる?」という気持ちになれるかということなのかと思います。

管理人が思うに、立ちはだかる『心理の壁』を乗り越え、”面白くなく、やりづらく、間違えやすい”災害対策を効果的に進めるために必要なチカラは、やはり”愛”なのかなと。

それは他に対するもの以前に、自分が「生き残りたい」という、自分の存在に対する愛で良いと思うのです。愛とは依存ではなく、その対象を守るための無償で無限のチカラとなるはずです。

非常に抽象的な結論になってしまいました。でも、あなたが生き残らなければ、他を救えない。だから、まずあなたが強くならなければならないのならば、それを実現するのはいかなる理屈でもなく、「生き残りたい、生き残らせたい」という強い思いであり、それこそが”愛”ということができるのではないでしょうか。

そこから、”そのためには何ができるか”という考えに至れば、『心理の壁』など一気に飛び越えられるはずです。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

2014年8月27日 (水)

【防災の心理38】全てを乗り越えるチカラ

人はできれば関わりたくなかったり、想定外の出来事に遭遇した時、周りに傍観者が多いほど、自らも傍観者となってしまいやすい。さらに傍観者の集団は群集心理を呼び起こし、危機の過小評価や行動の遅滞を招きやすい。

それが普段の生活ならともかく、事件、事故、災害などの危機に遭った時には、致命的な判断の誤りや行動の遅れに繋がりやすい。

そんな”がんじがらめ”の心理から抜け出して、『生き残る』、そして『生き残らせる』ために必要な行動を率先して起こすためには、一体どうしたら良いのでしょうか。


これまで当シリーズでは、そんな心理から抜け出すために共通する方法として、現実的な情報を『知る』ことが必要だと述べて来ました。しかし、こと『傍観者効果』から抜け出すためには、知っているだけではダメなのです。

『傍観者効果』に陥る場合には、大抵の場合はそこで何が必要か既に知っていて、その上で「それは誰かがやるだろう」という”逃げ”の心理が頭をもたげます。しかも、大抵の場合は「今、自分は傍観者になろうとしている、判断を避けている」という自覚さえある。


成功者と言われる人の座右の銘には、良く『迷ったら、動け』という意味あいの言葉がありますが、要は動かなければ状況は変わらない、動くことで状況を打開できる可能性も出てくるという意味でしょう。しかし迷いの中で動き始めることで、小さくない失敗のリスクも負うことになります。その結果の責任は自分で負う、という覚悟あってこその考え方かと思います。

問題は、その”覚悟”ができるかどうかですが、例えば目の前の負傷者に関わるかどうかという状況では、心理を抜きにしても、リスク要素があまりに多すぎるのです。

まず多くの場合、十分な救護知識・技術が無い。多少心得があっても実地経験はあまり無く、必要とされる処置が正しくできるか自信が無い。判断を誤って悪い結果になったら精神的負担だけでなく、社会的責任を負わされるかもしれない。ましてやリーダーになって、周りに正しい指示をする自信など無い、これだけ人がいれば、自分より適した人がいるに違いない、などと言う要素をひとつひとつ乗り越えようとしたら、とても動き出すことなど出来ないでしょう。

しかし、動かなければならない時もあるのです。そこで必要なのが、『別系統の思考』ではないでしょうか。上記のようなリスク要素を無視して、一気に飛び越える考え方です。


負傷者の立場になって考えてみましょう。事故などでケガをして、動けない。とても痛いし、ケガがどんな状態かわからない。もしかしたら死ぬかもしれない。後遺症が残るかもしれない。仕事ができなくなるかもしれない。なんて不運に遭ってしまったんだ。自分は、仕事は、家族は、これからどうなるんだ・・・というような、強い苦痛、不安、怒りに襲われているはずです。

負傷した直後は見当識の混乱、つまり何が起きたのか、自分がどうなっているのか理解できないことも多く、そんな場合はとにかく不安で、錯乱状態になることもあります。

そこへ人が集まって来たら、とにかく助けて欲しい。安全な場所へ動かして欲しい。救急車を呼んで欲しい。すぐに手当をして、楽にして欲しい。できることなら、「大丈夫。大したことないですよ」と言って欲しいと、周りの助けを強く望んでいるのです。


ならば、助ける。何ができるか、どうなるかはわからなくても、そんな理屈を飛び越えてとりあえず駆け寄り、(大丈夫でなくても)「大丈夫ですよ」と声をかけ、身体に手を当てる。

『手当て』という言葉は苦痛のある場所に手を当てる行為が語源であり、救護技術云々ではなく、大昔から人間が必要としたことです。それが実際に苦痛を和らげることもありますし、それ以上に精神的に落ち着かせる効果が大きいのです。

医学的な考え方では、状態のわからない負傷者は『さわるな、動かすな』が正解かもしれませんが、人間はそんなにヤワではありません。苦しむ人の身体をさすったり、手を握るくらいは全く問題ありません。もちろん、そうしながら痛む場所を聞いたり目視することによって、負傷の状態をできるだけ把握します。

要は、“負傷者”ではなく“人”として接することです。技術は二の次。まずは苦痛と不安をできるだけ取り除いてあげる。そうしてあげたいという気持ちは、たとえ『傍観者』とて、ほとんどの人が持っているはずですし、それが救護の本質です。

言うなれば、助けを求めている人がいる、ならば理屈抜きにできる助けをするというストレートな思考こそが、『別系統の思考』なのです。

そして、あなたのその行動が『傍観者』の気持ちを揺り動かして次の行動を促し、助けの輪が広がって行くのです。決して、あなたひとりではありません。それが間違いないことは、管理人自身も何度も経験しています。


一方、交通事故などの規模をはるかに超える大災害下では、近隣の人々による救護が最も大きな力となります。そのレベルになると、もう人は傍観している余裕さえ無く、とにかくできることをやろうと動き出すのです。しかし、日常の中でいきなりそのモードに入るのが難しいことを、ここまで心理面から考えて来ました。

そんな心理も理屈もまとめて乗り越える方法は、大上段から言わせていただければ、「なんとかして助けたい」という気持ち、すなわち”愛”ではないでしょうか。


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2014年8月18日 (月)

【防災の心理37】傍観の現実とは

今日8月18日、新聞に象徴的な記事を見つけましたので、それに関する記事をお送りします。


AEDの使用が一般市民にも解禁され、各地へ設置が始まってから今年で10年になるそうです。現在の設置数は全国で20万台を超えたとのこと。

では、AEDがどれくらい利用されているかというと、心肺停止状態で救急搬送された人に対する使用率は、2012年には3.7%でしかなかったそうです。これに対し、関係団体は「命の現場にかかわることをためらう人は多い。以前よりAEDの操作が簡単になったが、知られていない。周知徹底が必要だ」とコメントしてるそうです。

しかし管理人は、このコメントに違和感を感じざるを得ません。現実には”命の現場”どころか、小さな交通事故などでも、目の前の現場にすぐに駆け寄って自ら救護を始める人は滅多にいません。人が倒れていても、ましてや苦しんでいたり血が少しでも出ていたら、周りを取り囲んで眺めているだけが大半。

これは繁華街になるとより顕著で、まさに『傍観者効果』そのものの現場を、何度も経験しています。

AED使用率について少し注釈すれば、AEDを使用すべき状況は交通事故などによるものより、病気による心臓障害の方が圧倒的に多く、その現場の多くが一般家庭や職場です。2005年の統計によれば、心肺停止状態で救急搬送された患者の約7割が一般家庭からだったそうで、これは現在もあまり変わらないでしょう。

つまりたまたま居合わせた救護者、バイスタンダーがおらずAEDも手近な場所に無く、しかも一緒にいる人に高齢者が多いという状況が主ではあります。しかし、これは救うべき人が他人ではなく、家族の場合が多いということでもあります。


記事では、AED講習会参加者のコメントも紹介しています。「(講習を受けるまでは)一刻を争う現場に素人が立ち入っていいのかと思っていた」という声が多かったそうです。現実には一刻を争わなくても”傍観”することが多いのですが、AED講習受講者という救護意識が高い人々でさえ、そんな心理に囚われているということです。

そしてそんな心理が、誰かが救護を始めると「動かすな」という言葉になって表れるわけです。

当シリーズでは、今まで災害対策や非常時における『心理の壁』を、いくつも指摘して来ました。お化け屋敷の例では『群集心理からの遮断』、『情報の遮断』、『想定外』、『恐怖の伝播』などを、そして現在は『傍観者効果』です。

災害や交通事故などの現場は、そんな状況の”宝庫”なのです。群集の中から抜け出すことによる『群集心理からの遮断』、救護知識や技術の不足という『情報の遮断』、平穏だった街角で、いきなり人が苦しんでいるという『想定外』、そんな光景がもたらす『恐怖の伝播』そしてそれらが『傍観者効果』を加速する。まさにがんじがらめです。


しかしそんな中でも、業務や任務ではなく動き出す人々がいます。そんな人々とて、無論普通の市民。様々な『心理の壁』を感じています。でも、それを乗り越える。いやむしろ、乗り越えずにはいられない。その力の源は何なのでしょうか。

管理人が思うに、そんな人々は”別系統の思考”をしているのではないでしょうか。


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2014年8月15日 (金)

【防災の心理36】傍観は危機を招く?

1964年に米国で発生した『キディ・ジェノヴィーズ事件』では、35分間に渡って殺人犯から逃げ回る被害者を38人もの人が目撃しながら、誰一人として警察に通報しませんでした。これは、ただ"無関心”が生んだ出来事なのでしょうか。

事件後、専門家によって行われた社会心理学的な調査と事件で、そのような場合に陥りがちな、ある群集心理の存在が明らかにされました。

そ群集心理は、『傍観者効果』と呼ばれます。人はある状況において、自分以外の傍観者がいる場合には率先して行動しなくなる、つまり「自分がやらなくても、誰かがやるだろう」という意識を生みやすいということで、『キディ・ジェノヴィーズ事件』はその典型だったわけです。

これは学術的に指摘されるまでもなく、誰にでも覚えがあることだと思います。できれば関わりたくない、しかし重要な事態に直面した場合、自らは傍観、静観を決め込むことで"誰か”が動くのを期待してしまうということ、ありますよね。交通事故現場の"傍観”も、その典型的な例と言えます。ママさんにとっては、PTAの役員決めとか。そしてその心理は、傍観者が多いほど強くなって行くのです。

しかしそれは無関心でも悪意でもなく、人間の本能的な防御反応と考えられますから、それを批判しても始まりません。『キディ・ジェノヴィーズ事件』でも、もし誰かが「彼女を助けよう!」と駆け出していたら、同調する人や警察に通報する人が現れたに違いありません。"リーダー”の登場です。

『傍観者効果』が群集心理ならば、そのような付随行動も群集心理のひとつです。動き出すのは自分だけではない、危険も責任も分散されるという心理が、行動のきっかけを与えるのです。まさに『赤信号、みんなで渡れば怖くない』わけです。

問題は”本当に渡っても大丈夫か?”という判断も必要だということ。もし犯人が銃を持っていてこちらが丸腰だったら、リーダーがなんと言ってもまっすぐ突っ込んで行くのは危険すぎます。集団で赤信号を渡っていれば大抵の車は止まりますが、暴走ダンプが突っ込んで来ることもあるということです。

つまりリーダーにもついて行く者にも、それなりの知識と判断力が必要です。そしてそのレベルが高いほど、行動が成功する確率が高まります。例えばリーダーが歴戦の兵士だったら、協力者に安全な場所から犯人の気を引かせ、自分は手近なものを武器に死角から攻撃するという作戦も取れるわけです。


この『傍観者心理』というものは、他を助けるという場面だけでなく自分が当事者である場合に陥ることもあるから厄介です。例えば、この場所にいたら津波に襲われるかもしれない、しかし正しい情報も無ければリーダーもいないという状況では、自分の運命さえも"傍観”してしまう可能性があります。

特に、巨大災害のようにその恐怖を実感したことが無い場合には、「だれも言い出さないから大丈夫だろう」というような、前出の『正常化バイアス』や『楽観バイアス』にも陥り、自らリーダーとして集団を率いる行動をしづらくします。しかも本能的な群集心理により、集団の中にいた方が安心感がありますから、自分だけが逃げ出すという行動もしづらいという、なんだかがんじがらめの状態になってしまいやすいのです。

要は、人は想定を超える事態に直面し、さらにそれが集団の中だったら、基本的には"自分からは何もしたくない”状態に陥りやすいということです。

しかし現実は非情であり、間違った判断や行動は、それなりの結果につながるだけです。どんな理由にしろ、そこで求められる判断や行動を放棄したら、他を助けられないだけでなく自分も危機に陥ることがあるのです。

では、そんな心理を乗り越えて他を助け、それ以前に自分の安全を確かなものにするためには、どうしたら良いのでしょうか。


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2014年8月12日 (火)

【防災の心理35】あなたは傍観者?それとも...

今日8月12日は、29年前の1985年に日本航空123便が御巣鷹の尾根に墜落し、520人もの命が喪われた日です。改めまして、犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたします。

さて、前回はこの事故の事も絡めて、バイスタンダーとしての意識と技術を高めるためにはどうしたら良いのか考えましたが、仮にこのような現場の状況に"慣れて”いたら、誰でも積極的に救護に当たれるようになるのでしょうか。

過去に当ブログでも何度か書いていますが、管理人は長年バイクに乗り、モータースポーツにも関わった経験の中で、何度も交通事故の現場での救護経験があります。そして多くの現場で、同じような体験を繰り返して来ました。

それは、目の前で負傷者が倒れていても、そこに居合わせた多くの人がただ取り巻いて眺めているだけで、誰も手を出そうとしない状況です。そこで誰かが処置を始めようとすると、例外なく誰かから「動かすな」と言う声が上がる
のです。

もちろん頸椎損傷の可能性がある場合など、動かさない方が良い場合もありますが、まず負傷者の状態を確認しなければなりません。

多くが傍観する理由としては、まず救護知識と技術の決定的な不足があります。なんとかしてあげたいという気持ちはあっても、どうして良いかわからない。下手にさわって、悪化させたらどうしようという意識が強く働くのは、ある意味で仕方ありません。

積極的に関わって、責任問題には巻き込まれたくない。とりあえず見ていて、できることがあったら手伝おうと考える人は多いでしょう。実際、周囲の人に何か具体的に頼むと、大抵の人は動いてくれます。一方、ひたすら傍観を決め込む、ただの野次馬も少なくありませんが。

そんな時には、リーダー的な人の存在の有無で大きく変わります。誰かが積極的に関わり、的確な指示を出すことによって、効率的に救護や事故処理が進むことも少なくありません。

では、リーダー的な人がいなかったらどうなるか。そこで、ある『心理の壁』が頭をもたげて来るのです。


1964年に米国で起きた、『キディ・ジェノヴィーズ事件』と呼ばれる悲惨な殺人事件があります。ある住宅街で、キディ・ジェノヴィーズという女性が殺人犯に35分間にも渡って追いかけ回され、最終的に惨殺されました。彼女が「助けて!」と悲鳴を上げながら逃げ回っている間の目撃者は、調査によれば38人にも上ったそうです。しかしその間、誰一人として助けようとするどころか、警察に通報さえもしなかったのです。

メディアの取材に対し、目撃者は「どうして良いかわからなかった」、「通報するのが怖かった」などと答えたため、当時は「目撃者たちは無関心だったから誰も通報しなかった」と報道され、大きな問題となったのです。

凶暴な殺人犯の前に自分の身を晒して助ける行為が怖いのは、誰でも一緒です。首尾よくその場を切り抜けても、後で何があるかわかりません。管理人とて、そんな状況で出て行くことはためらわれますし、まずは自分や周囲の安全を確保するでしょう。それは仕方ありません。

では、なぜ誰も警察にさえ通報しなかったのでしょうか。本当にただ『無関心』だったからなのでしょうか。

この事件に関連して、後に社会心理学的な調査と実験が行われ、そこにある心理の影響が浮き彫りにされたのです。

次回へ続きます。


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2014年8月11日 (月)

【防災の心理34】備えていれば、助けられるか?

前回は、自分が大災害などの凄惨な現実に直面した時に気後れせず、必要な行動が素早くできるように、普段は『ブルーシートの向こう側』に隠された現実を自らの意志で見て、“慣れて”おくのもひとつの方法だということを述べました。

私事ながら、管理人がそういう意識を持ち始めたきっかけは、ちょうど30年前の明日にさかのぼります。

1985年8月12日、羽田から大阪伊丹空港へ向かった日本航空123便の機体に異常が発生し、約30分間の迷走飛行の後、群馬県の山中、御巣鷹山の尾根に墜落しました。そして単独機の事故としてはいまだに世界で最悪の、520人もの犠牲者が出たのです。三十回忌を前に、改めて犠牲になられた方々のご冥福をお祈りします。

管理人は群馬県の出身でして、あの事故の時には遺体収容などの拠点となった群馬県藤岡市のすぐ近くにいました。事故からしばらくの間、家の近くには警察や自衛隊の臨時ヘリ基地が設営され、周辺のホテルなどには全国から犠牲者の遺族が集まるなど、騒然とした中で日々を過ごしました。もとより航空機好きの管理人ですし、決して他人事とは思えない事故なのです。

余談ながらその後、あの事故については個人的にかなり情報を集め、一時はネット上で議論もやっていました。そこで遭遇したのが、薄弱な知識と情報を元に『米軍機が撃墜した』だの『自衛隊の標的機が衝突した』だの主張するエセ科学系や陰謀論者で、あの手の人種とは議論しても無駄なんだなということを痛感したのですが、それは余談。

当時はマスコミの報道基準も今より甘く、かなり凄惨な現場映像も公開されました。それをきっかけに、航空機事故を始めとする重大事故や災害における人体の損傷についても知識を深め、それは現実的な対策として、当ブログ記事にも反映されています。


あの事故から時間が経つにつれて、現場のあまりに凄惨な状況をさらに知ることになりましたが、そこで思ったのが、自分がその現場にいたら何を感じ、何ができるだろうかということだったのです。例えば、自分が派遣された自衛隊員だったら、あの現場に躊躇無く入って行けただろうかと。

もっとも、最初から何も感じない人がいるはずもありません。でも、必要ならばやらなければならない。無理矢理にでも"慣れる”ことが求められるのです。それが義務や任務ではないバイスタンダーでも、遺体の中から生存者を探し、激しく損傷した外傷の応急処置をして、速やかに医療関係者に引き継ぐ行動が、救命率を上げることになります。そこで怖いだの気持ち悪いだの言っている暇はありません。

もちろん、見ず知らずの他人のために限ったことではありません。それ以前に、そこで苦しんでいるのが自分の家族や大切な人だったら、ということです。そこで、ただ呆然と立ち尽くすことしかできない人ではありたくない。

管理人のそういう思いの原点は、もう30年も前のことになる、あの事故だったのです。その後阪神・淡路大震災、福知山線脱線転覆事故、東日本大震災の状況を見聞して、さらにその思いは強まっています。いずれの場合もバイスタンダー、つまり救護が義務ではない、そこに居合わせた人々の無償の努力によって、多くの命が救われたのです。


今回はほとんど管理人の私事になってしまいましたが、ではこれまで述べたような意識を持って備えていれば、人はみな積極的にバイスタンダーとして積極的に活動できるようになるのでしょうか。

実はそこにもうひとつ、大きな心理の壁があるのです。


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2014年8月 4日 (月)

【防災の心理33】隠された“本当のこと”を知るために

今回の内容は、果たして書くべきかどうかしばらく悩みましたが、敢えて書くことにしました。しかしどうにも煮え切らない内容にならざるを得ず、最初にその点はお詫びしたいと思います。

さて、現実の「死」のイメージがほぼ完全に覆い隠された世の中でそれを能動的に知り、事故や災害から「生き残る」ためのモチベーションを高めたいと思ったなら、どうすれば良いのでしょうか。

その方法はあります。でも、積極的にお勧めはしません。何故なら、その方法では防災のためには不要な、本来目にすべきでない情報も見てしまう可能性が高いからです。その方法を行うためには、見る側にも高い意識と自制心、そして自己責任が求められます。

何より、現実の映像はあまりにもショッキングで、その精神的負担は非常に大きいことを覚悟しなければなりません。そして、かなり誤解を受けやすい行為でもあります。「あんなものを見て、おかしいんじゃないか」と。昨今の猟奇的事件などと絡めて、人格を疑われることもあるでしょう。それもあって、お勧めはできないのです。


管理人個人としては、覆い隠された「本当のこと」をこの目で確かめたいという思いを、強く持っています。ボランティアとして震災後の福島へ行き、リスクを侵して原発事故警戒区域内にも入って、その凄惨な現実を目の当たりにしても来ました。もちろん現実を見るためだけではなく、ボランティア活動の一環としてですが。

そのような行動をする理由のひとつとして、自分が実際に巨大災害に遭遇した時に、現実の凄まじさに圧倒されて後ずさりしたくない、そこで必要とされる行動を躊躇なくできるようになりたいという思いが強いのです。だから自己責任で、「ブルーシートの向う側」の映像などにも触れています。言うなれば、そんな場面に頻繁に立ち会っている警察、消防、救急隊員や医療関係者、災害派遣の自衛隊員などの意識に、少しでも近づきたいという感じでしょうか。


そのような「ブルーシートの向う側」の情報は、ネット上にあります。主に海外のものですが、交通事故、暴動、爆弾テロ現場、戦場などの映像です。最近はシリア内戦、ウクライナ内紛などの最前線からの映像もたくさん入ってきています。一般市民が巻き込まれている映像もかなりあり、凄惨の極みです。

そんな状況で人間が陥る状態は、巨大災害下と非常に似ています。日常が一瞬で地獄に変わり、人間の意識も尊厳も省みられない、圧倒的で破壊的な「死」に蹂躙される現実は、見る者に本能的な嫌悪感を抱かせます(そうではない場合もあるから問題なのですが)

しかし、それが現実であるということを受け入れ、ある日突然それが自分の目前に現出するかもしれないということを意識して"慣れて”おくため、そして、災害時にそうならないためにどうするかを真剣に考えるためならば、見ておくのも良いでしょう。

但し、そのような映像に付随して、ただ嫌悪を催すような不愉快な情報があることも多いので、どこで見られるかなどという情報は記しません。あくまで自己責任で、情報の選別力が問われる部分でもあります。ネットで検索すれば、様々な映像が見つかるでしょう。


今回は批判や誤解を覚悟の上で、あまりにも覆い隠された「死」の現実に対するアンチテーゼのひとつとして、かなり迷った末にこの記事をアップしました。繰り返しますが、興味本位で見るべきものではありませんし、非常に誤解を招きやすいことでもあります。そして、強い精神的ショックを受けるでしょう。あくまで自己責任で、「本当はどうなのか」を知るために限っていただければと、管理人は願っています。

結果的に不十分な内容で、なんだか「振り」のようになっている部分も否めませんが、災害犠牲者の存在を忘れず、同じような悲劇を繰り返さないためのモチベーションを高めるために役立つならばという考えで、こういうやり方もあるんだというふうにご理解いただければと思います。

結局、あまりにも現実の恐怖か隠されすぎているために、興味本位でそのような映像を集めたサイトなどが繁盛してしまっているというのも、一面の真実でしょう。基本的には、公式に現実の姿を「教育」するためのメソッドが必要ではないかと考えています。


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2014年8月 1日 (金)

【防災の心理32】本当に必要な「教育」とは?

連日、紛争地域からのニュースが届きます。自爆テロで数十人死亡、○○地区の戦闘で千人以上死亡、長期の内戦で数万人が死亡等々。しかしそんなニュースを見ても、その現場の凄惨なイメージを想像し、恐怖を感じる人は少ないでしょう。自分に関係の無い海外の話なら尚更です。

では、東日本大震災直後を思い出してください。○○町で数百人が死亡、○○海岸で千体以上の遺体を収容というような、現代の我が国ではだれも考えなかった、まるで戦時のような"異常な"ニュースを、連日目の当たりにさせられました。

それでも、そんなニュースはあくまで「数字」に過ぎず、そこから根源的な死の恐怖を感じることはなかなかできません。家族を失って嘆き悲しむ人の姿を見ても、悲惨さは伝わっても、恐怖と苦痛の中で亡くなった人々の現実を感じることはできません。

でもそこには凄惨な大量死という現実が確かに存在し、それこそが巨大災害における恐怖の本質です。しかしそのイメージはほぼ完全に覆い隠され、現場にいた人々以外には、本当の恐怖は伝わっていないのです。管理人は震災の二ヶ月後から福島と宮城の津波被災地に入りましたが、その頃には現場に立ってさえ、そこで起きた大量死という現実の断片さえも感じることはできませんでした。あくまで、想像するだけだったのです。

ではそこで何があったのか。そこにいた人々は何を見たのか。管理人の知人に、震災の二日後、3月13日に宮城県の津波被災地に救援物資を届けた人がいます。詳しい場所は記しませんが、そこで見たことを伺いましたので、敢えてそのまま記します。非常に凄惨な内容ですので、ご注意ください。

『海岸沿いの道を走っていると、何キロにも渡って波打ち際に遺体が浮いていた。子供の遺体もたくさん見えた。街に入ると、高さ10メートルにもなるがれきの山がいくつもできていたが、どの山も半分くらいが遺体で覆われていた。ほとんどの遺体は、がれきの濁流に巻き込まれたために激しく損傷し"普通の状態”ではなかった。しかし血は水で洗い流され、傷口はみな白くなっていた。街全体に、死臭が漂っていた。』

被災地にいた人々が目にした、現実のごく一部です。生き残った人々はその中で家族や知人を探し、消防、警察、自衛隊員などは、そんな遺体を捜索、収容したのです。それがどんなに悲惨で過酷なことであったか、想像できるでしょうか。


今震災では、行政、メディア、そして個人が膨大な量の映像をリアルタイムで撮影しています。その中には、そのような現実を映し出したものも少なくないはずですが、これほどの超巨大災害にも関わらず、本当に悲惨な映像は、見事なまでに我々の目に触れることはありません。

前記事でも書きましたが、管理人はそれらを全部公開しろと主張しているのではありません。十分な配慮は必要なのです。興味本位で見て良いものでもありません。ただ、「これでいいのか?」という思いも強いのです。

2万人以上の人が亡くなったり行方不明になっているのに、そして同じような危険が他の多くの人々にも降りかかる可能性が小さくないというのに、その最も本質的な恐怖であり、最も避けなければならない「死」を、これほどまでに覆い隠すことが、果たして正しいのだろうかと。然るべき機関などが、然るべき方法で、十分な配慮の下で「教育」のために公開する必要があるのではないかと。

事故でも災害でも、そこで起こる凄惨な「死」を直視させて現実の恐怖を感じさせることが、個人の防災意識と災害対応力を最大限に発揮させ、ひいては犠牲者を減らすための最も効果的な方法ではないかと、管理人は考えるのです。実写がダメならアニメでもCGでも、とにかく現実の恐怖を「教育」するという発想はできないものでしょうか。


前記事をお読みいただいた読者の方から、以下のようなメッセージをいただきました。
『私の通った女子高では、交通事故や火災の現場、遺体安置所、病院の中などの映像を、年に数回、全校生徒に見せていた。でも今はもうやっていないようだ。』

管理人の免停講習の話もそうですが、以前はそういう「教育」も行われていましたし、今も少しはあるかもしれません。でもそれが「悲惨すぎる」とか「ショックが大きすぎる」などという"配慮”によって、ほとんど無くなってしまっているようです。若い人にこそ、そのような「教育」が必要だと思うのですが。


近年、小学校などでスタントマンが交通事故を再現して、その危険を教育するメソッドが行われているそうです。それを見た子供たちには、きっと一生ものの高い安全意識が植え付けられるでしょう。あんなに怖い、痛そうな事故には絶対に遭いたくたくないと。そういう思いを植え付けることが安全・防災教育の根源に無ければ、その効果は半減してしまうでしょう。要は、本能的な恐怖をかき立てるのです。

そして高校生くらいになったら、さらに現実の恐怖を直視させる防災教育と、救命救急講習を必修とするくらいになればいいなと、管理人は思うのです。我が国は、世界でも有数の災害大国なのですから。


さて、ここまで管理人の考えを述べて来ましたが、上記のような「教育」がすぐに実現するとも思えません。もしあなたが事故や災害の悲惨な現実を直視し、自らの安全・防災意識を高めたいと思われたら、どうすれば良いのでしょうか。

次回に続きます。


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2014年7月30日 (水)

【防災の心理31】ブルーシートの向う側

私事で恐縮ですが、管理人は若い頃から二輪、四輪にどっぷりハマり、モータースポーツもやりました。競技や練習中のクラッシュは何度もあり、重傷を負ったこともあります。

一方、公道での他が絡む事故は、もらい事故が一回のみ。でも公道でいつも模範運転をしていたとは、口が裂けても言えませんwただ、とにかく他が絡む事故に対してはとても「臆病」で、長年に渡っていわゆる交通事故を起こしていないのは、その意識と行動の結果だと言えます。とにかく、公道では絶対に他を傷つけない、自分も傷つきたくないという意識が強いのです。

そんな意識の源を、管理人ははっきりと「あれだ」と指摘することができます。もし過去に大きな事故でもやっていれば、それが最大の教訓となるでしょう。しかし管理人のもらい事故はボディがちょっとへこむくらいの物損でしたので、恐怖を植え付けられる程ではありませんでした。まったく別の機会に、事故に対する根源的な恐怖を植え付けられたのです。

それは二十代前半の、札幌在住時代でした。当時かなり「元気」に走っていた管理人は、スピード違反の累積で免停になってしまいました。免許センターで免停講習を受けたのですが、その当時の北海道警の講習は、今では考えられない凄まじい内容だったのです。それ以前に関東で受けたものとも比べ物になりません。


講習では必ず交通安全の映画を見せられるわけですが、その内容が、とにかく想像を絶していました。上映中に、何人もが部屋を飛び出してトイレに駆け込むのです。管理人も最後には見ていられなくなり、目をつぶってこみ上げる吐き気を堪えていました。

その映画の内容は、実際の重大事故の現場写真をそのまま、ひたすら延々と流すものでした。それも事故の状況ではなく、被害者のアップなのです。敢えてそのまま文字で描写します。非常に凄惨な内容ですので、ご注意ください。

大型トラックの後部に高速で潜り込んだ乗用車の、潰された運転手。大型トラックに牽きつぶされた人。バスの後輪に巻き込まれた子供。ノーヘルで止まっていたトラックの後部に突っ込んだライダーの頭部。高速で転覆し、屋根が吹っ飛ばされた車の運転手は、運転席でシートベルトを締めたまま、鼻から上が無くなっている。お読みいただいて、具体的に想像できますか?

そんな画像を延々と、何十枚も見せられたのです。それはどこでも日常的に起きていながら、ほとんど覆い隠されている「ブルーシートの向こう側」です。それはどんな教育や説得よりも、事故=凄惨な死であることを、見る者に突きつけました。事故のニュースの表現である「全身を強く打って死亡」の現実なのです。

その後現在に至るまで、少なくとも管理人の頭の中にはあの凄惨なイメージが常にあり、運転する時にはいつも、心に一定のブレーキをかけているのと同時に、周囲の危険に対してより一層敏感にしています。そして、長年に渡って少なくとも自分が原因の事故はひとつも起こしていない理由のひとつは、あの凄惨な映像体験のおかげだと言うことができます。

加えて、実際の事故現場にもたくさん遭遇しており、中には死亡事故もありました。そんな現場では、命を救うために自分ができることはやろうという「バイスタンダー」としての意識も高まりました。そして管理人だけでなく、あれを見た多くの人に、同じような意識を植え付けたのではないかと思うのです。

その後、様々な配慮というか気遣いによって、そのような凄惨な映像が、公式に一般の目に触れることはほとんど無くなっています。数年後には、北海道警の免停講習もすっかりソフトなものになっていたそうです。でも、同じような現実は、変わることなく日々起きています。

生命が失われる、それも人の尊厳など無関係に、地獄のような状況の中で。それが事故や災害の現実なのですが、現代はそんな現実を、様々な「配慮」が覆い隠してしまっていて、生命の危機に対してリアルな恐怖を感じることはほとんどありません。悲惨な犯罪の報道でも、恐怖はあくまでも理性的なもので、生命が失われることに対する本能的、根源的な恐怖は感じられません。

しかし管理人は、現実を包み隠さず公開せよと言いたいのではありません。それこそ人の尊厳、プライバシー、そして情報が歪曲して受け取られる問題など様々な要素が存在しますから、「配慮」はあって然るべきです。ただ、目に見えないから、見せてもらえないからと言って、あたかもそれが存在しないような、極端に言えば「臭いものには蓋」で終わらせて良いとも思えません。

事故対策も災害対策も、その最大の目的は「生き残る」こと。そしてその最大のモチベーションとなるのは、「死にたくない」という気持ちかと思います。そんな気持ちを高める効果的な方法のひとつが、現実の死を身近に感じることだと思いますが、受動的でいるだけでは、なかなかその機会がありません。

そんな世の中で、どうしたら本当の意味で「生き残る」ための災害対策へのモチベーションを高められるかを、考えたいと思います。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

2014年7月24日 (木)

【防災の心理30】どうしたら“本気”になれるのだろう

前回は全然防災の話じゃなかったのですが、ちょっとまとめましょう。

社会的存在としての人は、良くも悪くも他人との相互関係の中で自分の存在、立ち位置を確かめています。するとどうしても「他人の不幸」に目が行きがちになり、無意識のうちに「他人の不幸」と比較することで、「自分の幸福」の量を測ろうとしてしてしまいます。そのための象徴的なツールが、ワイドショーというわけです。もちろんワイドショーなど観ないという方も多いと思いますが(管理人もです)、生活の中で何かにつけて、そういった見方をしていることは少なく無いでしょう。

では、それは何故か。これはもう人は誰でも幸福になりたい苦しみたくない悩みたくない楽に生きたいという、根源的な願望があるからと言えるでしょう。できるだけ、自分の「不幸の影」など感じたくない。当然、災害なんかに遭いたくないし、もし遭ってしまっても、できるだけ楽でいたい。

個人の災害対策の中で、水、食料や防災グッズの備蓄は、まず自分が災害から生き残るという幸福を前提として、苦しい状況をある程度回避することができるという、確かな満足感=幸福を感じることができる行動なわけです。ちょっと下衆な言い方をすれば、備えていない人に比べて「自分の方がマシ」という優越感を感じることもあるでしょう。

だからこそ、防災というと自然にモノの備蓄から入りがちです。そこには、「これがあればこれができる」という、わかりやすい「幸福」があります。もちろんそれでも良いのですが、それだけではダメなのです。


前々回の記事で、阪神・淡路大震災と東日本大震災での実例を挙げました。そこでの多くの犠牲者は、モノの備えでは回避できない理由で命を落としました。阪神の場合は主に建物の耐震強度、東日本の場合は、主に津波に対する知識と行動です。

建物の耐震補強もある意味で「モノ」の範疇ですが、その費用と手間を考えると、経済的、時間的にやりたいこと、優先順位の高いことをさしおいてやらなければならず、しかもそれが本当に役に立つかは大地震に遭ってみなければ実感できないという、かなり満足感=幸福を感じにくいものでもあります。

そして、知識と行動。地震が来たらテーブルや机の下に、というレベルなら誰でも知っています。では、実際にテーブルの下に飛び込んだおかげで生き残った人がどれだけいるかというと、統計は無いものの、ごく一部でしょう。

さらに、東日本大震災での「ピックアップ行動」のように、社会的な理由によって、自分の身を守るための最良の避難行動が為されなかったことも少なくありませんでした。他を助けるために犠牲になった方も多いのですが、自分が生き残るためには、ある段階で救出を諦めなければなりません。それは人の社会的存在を放棄することであり、とてつもない不幸です。


現実の災害では、ありとあらゆる場面でありとあらゆる危険があなたに迫って来るわけで、そこから「生き残る」ためには、場面場面に見合った正しい知識と、秒単位の正確な判断と行動が必要なのです。しかし、すべての場面で最良の判断と行動ができる力は、一朝一夕に身に付くものではありません。しかも、仮に最良の知識を持って最良の行動をしたとしても、生き残れるとは限らないという現実。災害が巨大になるほど、どうにもならない場面が増えるのです。

現実の災害で多くの犠牲者を出した危険を回避するためには、少なくない費用と手間をかけ、あらゆる場面で遭遇する危険を知り、それを最も効果的に避ける方法を体系的に学ばなければなりません。さらに、危機に直面しても「頭の中は真っ白で、身体が固まる」ことが無いような、メンタルの強さも求められます。

そのレベルに到達するのは、多くの人にとって遠い道のりでしょう。管理人とて、何も備えていない人よりははるかに「強い」のですが、いざという時に本当に最良の行動ができるかと問われれば、絶対の自信があるとはと到底言えません。さらに悪いことには、考えられる備えをすべて行い、必要な知識をすべて会得した、言わばレスキュー隊レベルの備えをしていても、生き残れるとは限らないという現実を直視しなければならないのです。

そんな、いつもなら自分の幸福を補強するために利用していた「他人の不幸」を、「自分の不幸」として認識しなければならないというパラダイムシフトが、面白いわけがありません。ワイドショーを観て溜飲を下げるような心理の対極です。しかしそれが、災害から「生き残る」ために、本当に必要な災害対策の根源なのです。

ではそんな心理を乗り越え、個人の災害対策をしっかりしなければならないと心の底から思うためには、どうしたら良いのでしょうか。結論を先に言えば、すべての人がそれを実現することは不可能だと、管理人は考えています。ただ、「やらなければいけないことはわかっている。でも、なんだか面倒で手がつけられない」のように考えていて、何かきっかけを求めている方ならば、やりようがあると思うのです。


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