2018年12月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

防災の心理

2018年12月 7日 (金)

《再掲載》【防災の心理02】あなたはどちら側?(#1361)

2014年の連載記事再掲載の2回目です。


前回の記事で、「災害対策をしっかりやっても、感心されても尊敬されない」と書きましたが、言うまでも無く誰もが尊敬されたくて対策しているわけではなく、ただ災害から「生き残りたい、苦しみたくない」という純粋な気持ちから生まれる行動です。そして、そんな気持ちは誰もが持っているはずです。では、なぜそうなるか。

いくつか実例を挙げましょう。これらはすべて管理人の知人の実話です。

幼稚園と小学校のお子さんを持つ主婦の方。日頃から水、食品の備蓄や防災グッズの装備に努め、家の中の対策はもちろん、周辺の危険要素や避難経路もしっかり調査されています。しかし旦那さんはそのような行動を全く理解せず、いつも「そんな無駄なことするな」と不機嫌になるどころか、新しい備蓄や防災グッズを用意すれば「無駄なカネを使うな」と怒り出す始末。

いくら説得しても取り付く島もない状態が続いたので、その方は決意しました。もし大災害が起きても、旦那さんを全く当てにはしない。そこに居ようが居まいが、自分の子供と家は自分で守ると。高い防災意識が、夫婦の信頼関係にヒビを入れてしまったようです。


中学生のお子さんを持つ主婦の方。大地震発生時、台風接近時や竜巻発生の危険がある時の、学校の対応に不満持っていました。そのような場合、基本的にただ「下校させる」となっており、危険が迫っているような場合でも「校内待機」という選択肢が無かったからです。このため、状況によっては校内待機として、どのような状況で判断するかを明らかにするように求めました。

しかし学校側にそのようなマニュアルは存在せず、指摘に対しても曖昧な反応しかありませんでした。周囲の父兄を巻き込もうとしても積極的な人は少なく、学校側も含めて「面倒な人」という印象を持たれてしまったそうです。


30代の独身女性。東京・原宿の表参道を彼氏と一緒に歩いている時、東日本大震災が発生しました。初めて経験する激しい揺れに、歩道脇のビルからの落下物の危険をすぐに考え、彼氏の手を引っ張って車道を渡り、ケヤキ並木がある中央分離帯に避難しました。そこならば、落下物の危険はほぼありません。見事な判断です。

しかし周囲にそのような行動をする人はほとんどおらず、しかも肝心の彼氏は「心配しすぎだ」と彼女をなじりました。そんな彼氏の態度を目の当たりにして「この人とはやっていけない」と感じ、その後すぐに別れてしまったそうです。


30代の男性サラリーマン。地震の知識が豊富で、地震が起きると初期微動と主要動の時間差、揺れの方向、揺れの周期などから震央位置から規模、震源深さまで、数秒でかなり正確に推定するのが特技。仕事中に地震が起きる度に、「ネタ」として喜ばれていました。

通勤バッグの中には各種防災グッズが入っていて、例えば新人が入って来ると、「あの人のバッグの中を見せてもらえ、すごいぞ」とか「ネタ」として話題にされたりします。でも、感心されても真似する人はほぼ皆無。そんな場合、周りはいつも半笑いで、基本的に「変わった人」と思われているようです。


・・・という4つの実例をご覧いただきましたが、さて、あなたは「どちら側」ですか?当ブログをお読みいただいている皆様は、防災意識の高い方が多いかとは思います。それでも、例えばあなたの周りにこんな人々がいたら、ちょっと引いちゃうと感じられたりしていませんか?

そして、「その人たちはきっと極端すぎるんだろう。ほどほどにしておけばいいのに」と思われた方、多いのではないでしょうか。彼氏と別れた女性など、別れた原因はそれだけじゃ無いのだろうとも。いえ、本人は断言します。「それだけ」だと。そんな彼女を、極端すぎると思われたりしませんか?さらには、「防災ヲタ」の管理人の知人だから、同類ばかりなんじゃないか?とかw

念のため申し添えますと、この方々は、防災とは無関係の知人ばかりです。お気づきの方もいると思いますのでひとつネタバレしますと、最後の男性は、サラリーマン時代の管理人自身ですw


そうなんです。ほどほどにしておけば、周りから変な目で見られることは無いでしょう。では、ただ「災害から生き残る」という目的だけにフォーカスした場合に、その方々の行動や対策は必要にして十分かというと、これは管理人も含めて、とても十分とは言い切れません。元来、災害対策に完璧は存在しないのです。

実際の大災害では、運に左右される部分が非常に大きいのも事実。そしてその代償は「死」なのです。そのことが、災害対策を進める上で、心理的に大きな壁になっているのです。

次回も、そのことについて考えます。

■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

2018年11月29日 (木)

《再掲載》【防災の心理01】防災なんてやってられない!?(#1359)

再掲載シリーズを始めます。まずは2014年2月から連載した【防災の心理】シリーズ、全39回です。正直、あまり閲覧数は伸びなかったシリーズですが、効果的な災害対策を考える上で基礎となる考え方、感覚、行動を改めて見つめなおすものです。災害対策は、なぜ『わかっちゃいるけど手をつけづらい』のか?それならばどうすればやりやすいのか?を考えます。


新シリーズ、『防災の心理』を始めます。

初回からかなりあざといタイトルではありますがw、これは長年に渡って半分「趣味」で災害対策を考えて来た管理人の、本音のひとつでもあるのです。

誰でも、地震を始めとする自然災害の被害など受けたくないし、できることなら、そんなこと考えたくありません。そして、多くの人は自然災害で生命や財産の危機に晒されることもなく、とりあえず平穏な暮らしを送っています。

遭遇する確率で言えば、はるかに危険と言える交通事故や火災にさえ遭うことも少なければ、そんなのを目にする機会も滅多にありません。それでも、やっぱり無視できない。無理矢理に意識の外に追い出そうとしても、その恐怖は獅子身中の虫のごとく何かにつけて頭をもたげ、じわじわと心を蝕んで行きます。

たとえ誰かが「大地震なんか来ない。絶対に安心」と自信満々に言い切っても、それを素直に信じられる人など滅多にいないでしょう。仮にそれが、例えば本当に地震が滅多に来ない米国東海岸の人ならともかく、我々は「地震大国」である日本列島に生きているのです。そして我々は、大地震が人間の寿命くらいでは計れない時間の流れの中で繰り返されることを、事実によって知らされてしまいました。

思い出してください。1995年の阪神・淡路大震災が起きる前は、「関西には大地震は来ない」というのが、なんとなく定説になっていたことを。しかし歴史をひもといて見れば、関西でも過去何度にも渡り、多くの死傷者が出るレベルの地震に襲われているのです。それは他の地域でも例外ではなく、頻度や規模の差こそあれ、日本列島のどこでもいわゆる「大地震」と言えるレベル(現代の尺度で言えば震度6弱以上)の地震が繰り返されています。ただ、その多くが致命的な大被害では無かったために、広く口伝されていないだけなのです。そして「千年に一回」レベルと言われる(実はもっと短いらしいのですが)東日本大震災。

では、そのような現実を真摯に受け止めて、災害対策を進めるとしましょう。すると、これがまた難儀な話になります。

まず、大地震はいつ来るか、どのくらいの規模で来るか、それどころか本当に来るのかどうかさえわかりません。日常生活の中で「予定の決まっていないこと」への対応は、どうしても後回しにしたくなります。そうでなくても多忙な毎日です。

それでも気持ちを強く持って、「予防安全」の発想で対策を進めるとどうなるか。まず、費用がかかります。本当に役に立つ時が来るのかわからないものに、それなりの投資をしなければなりません。そして、手間がかかります。家具の転倒対策をして、防災グッズを揃えて時々点検し、居場所周囲の危険要素を調べ、地震発生時の行動を学び(それも居場所の状況ごとに違う!)、避難訓練や応急手当の訓練をして、家族などとの連絡手段をできるだけ多く確保して、帰宅困難対策もして・・・やることはいくらでもあります。

ところが、いくらやっても「これで絶対大丈夫」というゴールは見えません。いつまでも「とりあえず大丈夫(かも)」というレベルを抜け出せないから、ろくに達成感もない。それどころか、地震災害について知れば知るほど、対応すべき、しておきたくなる要素が増えて行くのです。基本的に、大災害の状況は人間の力でコントロールし切れるものではありませんから。これでもし現実の大災害の知識や教訓が無かったら、誰がカネと手間かけてやるかという話です。

管理人は、きっと臆病なのでしょう。昔、小松左京氏の「日本沈没」を読んで以来、大地震への恐怖がすっかり刷り込まれてしまい、それ以来、いわゆる「防災意識の高い人」です。防災マニア、防災ヲタと呼ばれることもあります。そのモチベーションの源は、もちろん自分や家族が無事でいたいという思いと、過酷な状況を正しい知識と行動で乗り越えたい、それができれば「カッコいいじゃないか」、突き詰めて考えれば、そういうことかもしれません。

では、そんな管理人(と、同じような人々)が、周りからどう思われるか。

基本的に、あまり尊敬されませんw感心はされますが、その裏に「心配しすぎ」、「臆病すぎ」、「所詮偏ったマニア」だというニュアンスがいつも見え隠れしています。それにはふたパターンあって、本当にバカにしている場合と、バカにするつもりは無いけれど、管理人の存在ができれば忘れていたい、考えたくない大地震への恐怖を呼び覚ましてしまう場合です。後者の場合、自分があまり備えていない、もしでかいのを喰らったら危ないという意識が、それなりに備えている人を見下す形で現れるのです。

そうやって、自分の「負い目」を帳消しにしようとするのも、災害対策に限らず人間心理の一面ではあります。しっかりと災害対策を進められている皆様、周囲からそんなニュアンス感じること多くありませんか?もっとも、管理人は自分と家族のためにやっていますから、全然気になりませんが。でも、決して気分の良いものじゃありませんよね。

それが関係の薄い人からの反応ならともかく、家族や近しい関係者の中だと、さらに難儀なことになります。実は管理人、防災意識の高いママさんから相談を受けることが結構あります。ママさんは大抵、いわゆる「マニア」ではなく、ただ家族を守りたいという意識が強い訳なのですが、特にだんなさんが理解してくれない、バカにされる、何も協力してくれない、頼りにならないという嘆きが聞こえて来て、それが家庭不和の原因になっていることもあったりします。

念のため申し添えますと、男性である管理人の防災意識が高い我が家は平穏かというと、それはそれで別の問題があるんですけどねw

そんなわけで、地震災害対策はカネも手間もかかる、でも「これでいい」という到達点がない、達成感も絶対の安全も無い、尊敬もされないしバカにされることさえあるという、「壁」だらけの作業だと思うのです。普通ならやってられないですよね。

でも、ほとんどの人が「自分には必要無い」とは言い切れないでしょう。何故なら、誰もが死にたくない、苦しみたくないからです。だから自分の気持ち、社会生活や人間関係の壁を全部飛び越えて、そのためだけに災害対策を進めなければなりません。しかし得られるメリットは「生き残る可能性が高まる」ことのみ。

当シリーズでは、そんな難儀な作業を少しでも円滑に進めるために、そこに立ちはだかる「心理の壁」と、それを乗り越える方法を考えて行きたいと思います。

■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

2014年9月10日 (水)

【防災の心理39 最終回】あなたがやらなけれは誰がやる?

【防災の心理】シリーズを、これまで38回に渡ってお送りしてきました。39回目の今回は、最終回としてまとめをお送りします。

当シリーズでお送りして来たのは、個人として効果的な災害対策を進めようとしたり、いざ災害の現場に放り込まれてしまった時に、人はとにかくやたらと心理的な壁に囲まれてしまうということです。

それに気付かないと、いつの間にか対策のピントがズレたり間違った方針や行動に繋がりやすく、その結果はイザ災害に直面した時に備えが役立たないだけでなく、最悪の場合は『生き残る』可能性を減らしてしまうことになってしまうのです。

元来、個人の災害対策は”面白くなくて、やりづらくて、間違えやすい”ということを、まず知っていただきたくて、このシリーズを書きました。たまたま目に付いた、やりやすいことをやっているだけでは、効果的な対策や行動はできないのです。そこをしっかりと認識していただきたいと思います。

交通事故を起こさないためには、スピードを出しすぎない、交通ルールを守る、周囲を十分に確認するなどの”わかりやすい”対策で、その目的の大半を達成することができます。それでも起きる事故はありますが、その確率を確実に減らすことができます。

一方、災害はその態様があまりに多岐に渡り、対策の効果を計ることも滅多にできないので、そこに”わかりやすい”方法はありません。そして直接生命に関わるために、誰もが直視したくないものです。その中で唯一わかりやすいのは、モノの備蓄だけです。

しかしその備えを活かすためには、まず災害から『生き残る』ことが必要です。そこが一番大切な部分ですが、そこに立ちはだかる『心理の壁』は高く、相当な意識と覚悟が無いと、乗り越えることができないのです。

当シリーズで示したような、様々な『心理の壁』を、ひとつひとつ乗り越えようと思っても、それらは人間の本能に根ざしたものですから、なかなか難しい。しかし乗り越えなければ、生き残れない。ならばどうするか。

多くの人にとって、もし災害対策が職務や義務であったなら、心理がどうのなど関係無く、最も効果的な方法を考え、実行するでしょう。自分の役割だと認識すれば、例え苦しくても「自分がやらなければ誰がやる?」くらいの気持ちになるはずです。

できることなら、それくらいの気持ちで個人の災害対策も進めたいものですが、そこに職務や義務という縛りが無いと、なかなかそうは行きません。でも、つまるところはどうやって「自分がやらなければ誰がやる?」という気持ちになれるかということなのかと思います。

管理人が思うに、立ちはだかる『心理の壁』を乗り越え、”面白くなく、やりづらく、間違えやすい”災害対策を効果的に進めるために必要なチカラは、やはり”愛”なのかなと。

それは他に対するもの以前に、自分が「生き残りたい」という、自分の存在に対する愛で良いと思うのです。愛とは依存ではなく、その対象を守るための無償で無限のチカラとなるはずです。

非常に抽象的な結論になってしまいました。でも、あなたが生き残らなければ、他を救えない。だから、まずあなたが強くならなければならないのならば、それを実現するのはいかなる理屈でもなく、「生き残りたい、生き残らせたい」という強い思いであり、それこそが”愛”ということができるのではないでしょうか。

そこから、”そのためには何ができるか”という考えに至れば、『心理の壁』など一気に飛び越えられるはずです。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

2014年8月27日 (水)

【防災の心理38】全てを乗り越えるチカラ

人はできれば関わりたくなかったり、想定外の出来事に遭遇した時、周りに傍観者が多いほど、自らも傍観者となってしまいやすい。さらに傍観者の集団は群集心理を呼び起こし、危機の過小評価や行動の遅滞を招きやすい。

それが普段の生活ならともかく、事件、事故、災害などの危機に遭った時には、致命的な判断の誤りや行動の遅れに繋がりやすい。

そんな”がんじがらめ”の心理から抜け出して、『生き残る』、そして『生き残らせる』ために必要な行動を率先して起こすためには、一体どうしたら良いのでしょうか。


これまで当シリーズでは、そんな心理から抜け出すために共通する方法として、現実的な情報を『知る』ことが必要だと述べて来ました。しかし、こと『傍観者効果』から抜け出すためには、知っているだけではダメなのです。

『傍観者効果』に陥る場合には、大抵の場合はそこで何が必要か既に知っていて、その上で「それは誰かがやるだろう」という”逃げ”の心理が頭をもたげます。しかも、大抵の場合は「今、自分は傍観者になろうとしている、判断を避けている」という自覚さえある。


成功者と言われる人の座右の銘には、良く『迷ったら、動け』という意味あいの言葉がありますが、要は動かなければ状況は変わらない、動くことで状況を打開できる可能性も出てくるという意味でしょう。しかし迷いの中で動き始めることで、小さくない失敗のリスクも負うことになります。その結果の責任は自分で負う、という覚悟あってこその考え方かと思います。

問題は、その”覚悟”ができるかどうかですが、例えば目の前の負傷者に関わるかどうかという状況では、心理を抜きにしても、リスク要素があまりに多すぎるのです。

まず多くの場合、十分な救護知識・技術が無い。多少心得があっても実地経験はあまり無く、必要とされる処置が正しくできるか自信が無い。判断を誤って悪い結果になったら精神的負担だけでなく、社会的責任を負わされるかもしれない。ましてやリーダーになって、周りに正しい指示をする自信など無い、これだけ人がいれば、自分より適した人がいるに違いない、などと言う要素をひとつひとつ乗り越えようとしたら、とても動き出すことなど出来ないでしょう。

しかし、動かなければならない時もあるのです。そこで必要なのが、『別系統の思考』ではないでしょうか。上記のようなリスク要素を無視して、一気に飛び越える考え方です。


負傷者の立場になって考えてみましょう。事故などでケガをして、動けない。とても痛いし、ケガがどんな状態かわからない。もしかしたら死ぬかもしれない。後遺症が残るかもしれない。仕事ができなくなるかもしれない。なんて不運に遭ってしまったんだ。自分は、仕事は、家族は、これからどうなるんだ・・・というような、強い苦痛、不安、怒りに襲われているはずです。

負傷した直後は見当識の混乱、つまり何が起きたのか、自分がどうなっているのか理解できないことも多く、そんな場合はとにかく不安で、錯乱状態になることもあります。

そこへ人が集まって来たら、とにかく助けて欲しい。安全な場所へ動かして欲しい。救急車を呼んで欲しい。すぐに手当をして、楽にして欲しい。できることなら、「大丈夫。大したことないですよ」と言って欲しいと、周りの助けを強く望んでいるのです。


ならば、助ける。何ができるか、どうなるかはわからなくても、そんな理屈を飛び越えてとりあえず駆け寄り、(大丈夫でなくても)「大丈夫ですよ」と声をかけ、身体に手を当てる。

『手当て』という言葉は苦痛のある場所に手を当てる行為が語源であり、救護技術云々ではなく、大昔から人間が必要としたことです。それが実際に苦痛を和らげることもありますし、それ以上に精神的に落ち着かせる効果が大きいのです。

医学的な考え方では、状態のわからない負傷者は『さわるな、動かすな』が正解かもしれませんが、人間はそんなにヤワではありません。苦しむ人の身体をさすったり、手を握るくらいは全く問題ありません。もちろん、そうしながら痛む場所を聞いたり目視することによって、負傷の状態をできるだけ把握します。

要は、“負傷者”ではなく“人”として接することです。技術は二の次。まずは苦痛と不安をできるだけ取り除いてあげる。そうしてあげたいという気持ちは、たとえ『傍観者』とて、ほとんどの人が持っているはずですし、それが救護の本質です。

言うなれば、助けを求めている人がいる、ならば理屈抜きにできる助けをするというストレートな思考こそが、『別系統の思考』なのです。

そして、あなたのその行動が『傍観者』の気持ちを揺り動かして次の行動を促し、助けの輪が広がって行くのです。決して、あなたひとりではありません。それが間違いないことは、管理人自身も何度も経験しています。


一方、交通事故などの規模をはるかに超える大災害下では、近隣の人々による救護が最も大きな力となります。そのレベルになると、もう人は傍観している余裕さえ無く、とにかくできることをやろうと動き出すのです。しかし、日常の中でいきなりそのモードに入るのが難しいことを、ここまで心理面から考えて来ました。

そんな心理も理屈もまとめて乗り越える方法は、大上段から言わせていただければ、「なんとかして助けたい」という気持ち、すなわち”愛”ではないでしょうか。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

2014年8月18日 (月)

【防災の心理37】傍観の現実とは

今日8月18日、新聞に象徴的な記事を見つけましたので、それに関する記事をお送りします。


AEDの使用が一般市民にも解禁され、各地へ設置が始まってから今年で10年になるそうです。現在の設置数は全国で20万台を超えたとのこと。

では、AEDがどれくらい利用されているかというと、心肺停止状態で救急搬送された人に対する使用率は、2012年には3.7%でしかなかったそうです。これに対し、関係団体は「命の現場にかかわることをためらう人は多い。以前よりAEDの操作が簡単になったが、知られていない。周知徹底が必要だ」とコメントしてるそうです。

しかし管理人は、このコメントに違和感を感じざるを得ません。現実には”命の現場”どころか、小さな交通事故などでも、目の前の現場にすぐに駆け寄って自ら救護を始める人は滅多にいません。人が倒れていても、ましてや苦しんでいたり血が少しでも出ていたら、周りを取り囲んで眺めているだけが大半。

これは繁華街になるとより顕著で、まさに『傍観者効果』そのものの現場を、何度も経験しています。

AED使用率について少し注釈すれば、AEDを使用すべき状況は交通事故などによるものより、病気による心臓障害の方が圧倒的に多く、その現場の多くが一般家庭や職場です。2005年の統計によれば、心肺停止状態で救急搬送された患者の約7割が一般家庭からだったそうで、これは現在もあまり変わらないでしょう。

つまりたまたま居合わせた救護者、バイスタンダーがおらずAEDも手近な場所に無く、しかも一緒にいる人に高齢者が多いという状況が主ではあります。しかし、これは救うべき人が他人ではなく、家族の場合が多いということでもあります。


記事では、AED講習会参加者のコメントも紹介しています。「(講習を受けるまでは)一刻を争う現場に素人が立ち入っていいのかと思っていた」という声が多かったそうです。現実には一刻を争わなくても”傍観”することが多いのですが、AED講習受講者という救護意識が高い人々でさえ、そんな心理に囚われているということです。

そしてそんな心理が、誰かが救護を始めると「動かすな」という言葉になって表れるわけです。

当シリーズでは、今まで災害対策や非常時における『心理の壁』を、いくつも指摘して来ました。お化け屋敷の例では『群集心理からの遮断』、『情報の遮断』、『想定外』、『恐怖の伝播』などを、そして現在は『傍観者効果』です。

災害や交通事故などの現場は、そんな状況の”宝庫”なのです。群集の中から抜け出すことによる『群集心理からの遮断』、救護知識や技術の不足という『情報の遮断』、平穏だった街角で、いきなり人が苦しんでいるという『想定外』、そんな光景がもたらす『恐怖の伝播』そしてそれらが『傍観者効果』を加速する。まさにがんじがらめです。


しかしそんな中でも、業務や任務ではなく動き出す人々がいます。そんな人々とて、無論普通の市民。様々な『心理の壁』を感じています。でも、それを乗り越える。いやむしろ、乗り越えずにはいられない。その力の源は何なのでしょうか。

管理人が思うに、そんな人々は”別系統の思考”をしているのではないでしょうか。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

2014年8月15日 (金)

【防災の心理36】傍観は危機を招く?

1964年に米国で発生した『キディ・ジェノヴィーズ事件』では、35分間に渡って殺人犯から逃げ回る被害者を38人もの人が目撃しながら、誰一人として警察に通報しませんでした。これは、ただ"無関心”が生んだ出来事なのでしょうか。

事件後、専門家によって行われた社会心理学的な調査と事件で、そのような場合に陥りがちな、ある群集心理の存在が明らかにされました。

そ群集心理は、『傍観者効果』と呼ばれます。人はある状況において、自分以外の傍観者がいる場合には率先して行動しなくなる、つまり「自分がやらなくても、誰かがやるだろう」という意識を生みやすいということで、『キディ・ジェノヴィーズ事件』はその典型だったわけです。

これは学術的に指摘されるまでもなく、誰にでも覚えがあることだと思います。できれば関わりたくない、しかし重要な事態に直面した場合、自らは傍観、静観を決め込むことで"誰か”が動くのを期待してしまうということ、ありますよね。交通事故現場の"傍観”も、その典型的な例と言えます。ママさんにとっては、PTAの役員決めとか。そしてその心理は、傍観者が多いほど強くなって行くのです。

しかしそれは無関心でも悪意でもなく、人間の本能的な防御反応と考えられますから、それを批判しても始まりません。『キディ・ジェノヴィーズ事件』でも、もし誰かが「彼女を助けよう!」と駆け出していたら、同調する人や警察に通報する人が現れたに違いありません。"リーダー”の登場です。

『傍観者効果』が群集心理ならば、そのような付随行動も群集心理のひとつです。動き出すのは自分だけではない、危険も責任も分散されるという心理が、行動のきっかけを与えるのです。まさに『赤信号、みんなで渡れば怖くない』わけです。

問題は”本当に渡っても大丈夫か?”という判断も必要だということ。もし犯人が銃を持っていてこちらが丸腰だったら、リーダーがなんと言ってもまっすぐ突っ込んで行くのは危険すぎます。集団で赤信号を渡っていれば大抵の車は止まりますが、暴走ダンプが突っ込んで来ることもあるということです。

つまりリーダーにもついて行く者にも、それなりの知識と判断力が必要です。そしてそのレベルが高いほど、行動が成功する確率が高まります。例えばリーダーが歴戦の兵士だったら、協力者に安全な場所から犯人の気を引かせ、自分は手近なものを武器に死角から攻撃するという作戦も取れるわけです。


この『傍観者心理』というものは、他を助けるという場面だけでなく自分が当事者である場合に陥ることもあるから厄介です。例えば、この場所にいたら津波に襲われるかもしれない、しかし正しい情報も無ければリーダーもいないという状況では、自分の運命さえも"傍観”してしまう可能性があります。

特に、巨大災害のようにその恐怖を実感したことが無い場合には、「だれも言い出さないから大丈夫だろう」というような、前出の『正常化バイアス』や『楽観バイアス』にも陥り、自らリーダーとして集団を率いる行動をしづらくします。しかも本能的な群集心理により、集団の中にいた方が安心感がありますから、自分だけが逃げ出すという行動もしづらいという、なんだかがんじがらめの状態になってしまいやすいのです。

要は、人は想定を超える事態に直面し、さらにそれが集団の中だったら、基本的には"自分からは何もしたくない”状態に陥りやすいということです。

しかし現実は非情であり、間違った判断や行動は、それなりの結果につながるだけです。どんな理由にしろ、そこで求められる判断や行動を放棄したら、他を助けられないだけでなく自分も危機に陥ることがあるのです。

では、そんな心理を乗り越えて他を助け、それ以前に自分の安全を確かなものにするためには、どうしたら良いのでしょうか。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

2014年8月12日 (火)

【防災の心理35】あなたは傍観者?それとも...

今日8月12日は、29年前の1985年に日本航空123便が御巣鷹の尾根に墜落し、520人もの命が喪われた日です。改めまして、犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたします。

さて、前回はこの事故の事も絡めて、バイスタンダーとしての意識と技術を高めるためにはどうしたら良いのか考えましたが、仮にこのような現場の状況に"慣れて”いたら、誰でも積極的に救護に当たれるようになるのでしょうか。

過去に当ブログでも何度か書いていますが、管理人は長年バイクに乗り、モータースポーツにも関わった経験の中で、何度も交通事故の現場での救護経験があります。そして多くの現場で、同じような体験を繰り返して来ました。

それは、目の前で負傷者が倒れていても、そこに居合わせた多くの人がただ取り巻いて眺めているだけで、誰も手を出そうとしない状況です。そこで誰かが処置を始めようとすると、例外なく誰かから「動かすな」と言う声が上がる
のです。

もちろん頸椎損傷の可能性がある場合など、動かさない方が良い場合もありますが、まず負傷者の状態を確認しなければなりません。

多くが傍観する理由としては、まず救護知識と技術の決定的な不足があります。なんとかしてあげたいという気持ちはあっても、どうして良いかわからない。下手にさわって、悪化させたらどうしようという意識が強く働くのは、ある意味で仕方ありません。

積極的に関わって、責任問題には巻き込まれたくない。とりあえず見ていて、できることがあったら手伝おうと考える人は多いでしょう。実際、周囲の人に何か具体的に頼むと、大抵の人は動いてくれます。一方、ひたすら傍観を決め込む、ただの野次馬も少なくありませんが。

そんな時には、リーダー的な人の存在の有無で大きく変わります。誰かが積極的に関わり、的確な指示を出すことによって、効率的に救護や事故処理が進むことも少なくありません。

では、リーダー的な人がいなかったらどうなるか。そこで、ある『心理の壁』が頭をもたげて来るのです。


1964年に米国で起きた、『キディ・ジェノヴィーズ事件』と呼ばれる悲惨な殺人事件があります。ある住宅街で、キディ・ジェノヴィーズという女性が殺人犯に35分間にも渡って追いかけ回され、最終的に惨殺されました。彼女が「助けて!」と悲鳴を上げながら逃げ回っている間の目撃者は、調査によれば38人にも上ったそうです。しかしその間、誰一人として助けようとするどころか、警察に通報さえもしなかったのです。

メディアの取材に対し、目撃者は「どうして良いかわからなかった」、「通報するのが怖かった」などと答えたため、当時は「目撃者たちは無関心だったから誰も通報しなかった」と報道され、大きな問題となったのです。

凶暴な殺人犯の前に自分の身を晒して助ける行為が怖いのは、誰でも一緒です。首尾よくその場を切り抜けても、後で何があるかわかりません。管理人とて、そんな状況で出て行くことはためらわれますし、まずは自分や周囲の安全を確保するでしょう。それは仕方ありません。

では、なぜ誰も警察にさえ通報しなかったのでしょうか。本当にただ『無関心』だったからなのでしょうか。

この事件に関連して、後に社会心理学的な調査と実験が行われ、そこにある心理の影響が浮き彫りにされたのです。

次回へ続きます。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

2014年8月11日 (月)

【防災の心理34】備えていれば、助けられるか?

前回は、自分が大災害などの凄惨な現実に直面した時に気後れせず、必要な行動が素早くできるように、普段は『ブルーシートの向こう側』に隠された現実を自らの意志で見て、“慣れて”おくのもひとつの方法だということを述べました。

私事ながら、管理人がそういう意識を持ち始めたきっかけは、ちょうど30年前の明日にさかのぼります。

1985年8月12日、羽田から大阪伊丹空港へ向かった日本航空123便の機体に異常が発生し、約30分間の迷走飛行の後、群馬県の山中、御巣鷹山の尾根に墜落しました。そして単独機の事故としてはいまだに世界で最悪の、520人もの犠牲者が出たのです。三十回忌を前に、改めて犠牲になられた方々のご冥福をお祈りします。

管理人は群馬県の出身でして、あの事故の時には遺体収容などの拠点となった群馬県藤岡市のすぐ近くにいました。事故からしばらくの間、家の近くには警察や自衛隊の臨時ヘリ基地が設営され、周辺のホテルなどには全国から犠牲者の遺族が集まるなど、騒然とした中で日々を過ごしました。もとより航空機好きの管理人ですし、決して他人事とは思えない事故なのです。

余談ながらその後、あの事故については個人的にかなり情報を集め、一時はネット上で議論もやっていました。そこで遭遇したのが、薄弱な知識と情報を元に『米軍機が撃墜した』だの『自衛隊の標的機が衝突した』だの主張するエセ科学系や陰謀論者で、あの手の人種とは議論しても無駄なんだなということを痛感したのですが、それは余談。

当時はマスコミの報道基準も今より甘く、かなり凄惨な現場映像も公開されました。それをきっかけに、航空機事故を始めとする重大事故や災害における人体の損傷についても知識を深め、それは現実的な対策として、当ブログ記事にも反映されています。


あの事故から時間が経つにつれて、現場のあまりに凄惨な状況をさらに知ることになりましたが、そこで思ったのが、自分がその現場にいたら何を感じ、何ができるだろうかということだったのです。例えば、自分が派遣された自衛隊員だったら、あの現場に躊躇無く入って行けただろうかと。

もっとも、最初から何も感じない人がいるはずもありません。でも、必要ならばやらなければならない。無理矢理にでも"慣れる”ことが求められるのです。それが義務や任務ではないバイスタンダーでも、遺体の中から生存者を探し、激しく損傷した外傷の応急処置をして、速やかに医療関係者に引き継ぐ行動が、救命率を上げることになります。そこで怖いだの気持ち悪いだの言っている暇はありません。

もちろん、見ず知らずの他人のために限ったことではありません。それ以前に、そこで苦しんでいるのが自分の家族や大切な人だったら、ということです。そこで、ただ呆然と立ち尽くすことしかできない人ではありたくない。

管理人のそういう思いの原点は、もう30年も前のことになる、あの事故だったのです。その後阪神・淡路大震災、福知山線脱線転覆事故、東日本大震災の状況を見聞して、さらにその思いは強まっています。いずれの場合もバイスタンダー、つまり救護が義務ではない、そこに居合わせた人々の無償の努力によって、多くの命が救われたのです。


今回はほとんど管理人の私事になってしまいましたが、ではこれまで述べたような意識を持って備えていれば、人はみな積極的にバイスタンダーとして積極的に活動できるようになるのでしょうか。

実はそこにもうひとつ、大きな心理の壁があるのです。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。


2014年8月 4日 (月)

【防災の心理33】隠された“本当のこと”を知るために

今回の内容は、果たして書くべきかどうかしばらく悩みましたが、敢えて書くことにしました。しかしどうにも煮え切らない内容にならざるを得ず、最初にその点はお詫びしたいと思います。

さて、現実の「死」のイメージがほぼ完全に覆い隠された世の中でそれを能動的に知り、事故や災害から「生き残る」ためのモチベーションを高めたいと思ったなら、どうすれば良いのでしょうか。

その方法はあります。でも、積極的にお勧めはしません。何故なら、その方法では防災のためには不要な、本来目にすべきでない情報も見てしまう可能性が高いからです。その方法を行うためには、見る側にも高い意識と自制心、そして自己責任が求められます。

何より、現実の映像はあまりにもショッキングで、その精神的負担は非常に大きいことを覚悟しなければなりません。そして、かなり誤解を受けやすい行為でもあります。「あんなものを見て、おかしいんじゃないか」と。昨今の猟奇的事件などと絡めて、人格を疑われることもあるでしょう。それもあって、お勧めはできないのです。


管理人個人としては、覆い隠された「本当のこと」をこの目で確かめたいという思いを、強く持っています。ボランティアとして震災後の福島へ行き、リスクを侵して原発事故警戒区域内にも入って、その凄惨な現実を目の当たりにしても来ました。もちろん現実を見るためだけではなく、ボランティア活動の一環としてですが。

そのような行動をする理由のひとつとして、自分が実際に巨大災害に遭遇した時に、現実の凄まじさに圧倒されて後ずさりしたくない、そこで必要とされる行動を躊躇なくできるようになりたいという思いが強いのです。だから自己責任で、「ブルーシートの向う側」の映像などにも触れています。言うなれば、そんな場面に頻繁に立ち会っている警察、消防、救急隊員や医療関係者、災害派遣の自衛隊員などの意識に、少しでも近づきたいという感じでしょうか。


そのような「ブルーシートの向う側」の情報は、ネット上にあります。主に海外のものですが、交通事故、暴動、爆弾テロ現場、戦場などの映像です。最近はシリア内戦、ウクライナ内紛などの最前線からの映像もたくさん入ってきています。一般市民が巻き込まれている映像もかなりあり、凄惨の極みです。

そんな状況で人間が陥る状態は、巨大災害下と非常に似ています。日常が一瞬で地獄に変わり、人間の意識も尊厳も省みられない、圧倒的で破壊的な「死」に蹂躙される現実は、見る者に本能的な嫌悪感を抱かせます(そうではない場合もあるから問題なのですが)

しかし、それが現実であるということを受け入れ、ある日突然それが自分の目前に現出するかもしれないということを意識して"慣れて”おくため、そして、災害時にそうならないためにどうするかを真剣に考えるためならば、見ておくのも良いでしょう。

但し、そのような映像に付随して、ただ嫌悪を催すような不愉快な情報があることも多いので、どこで見られるかなどという情報は記しません。あくまで自己責任で、情報の選別力が問われる部分でもあります。ネットで検索すれば、様々な映像が見つかるでしょう。


今回は批判や誤解を覚悟の上で、あまりにも覆い隠された「死」の現実に対するアンチテーゼのひとつとして、かなり迷った末にこの記事をアップしました。繰り返しますが、興味本位で見るべきものではありませんし、非常に誤解を招きやすいことでもあります。そして、強い精神的ショックを受けるでしょう。あくまで自己責任で、「本当はどうなのか」を知るために限っていただければと、管理人は願っています。

結果的に不十分な内容で、なんだか「振り」のようになっている部分も否めませんが、災害犠牲者の存在を忘れず、同じような悲劇を繰り返さないためのモチベーションを高めるために役立つならばという考えで、こういうやり方もあるんだというふうにご理解いただければと思います。

結局、あまりにも現実の恐怖か隠されすぎているために、興味本位でそのような映像を集めたサイトなどが繁盛してしまっているというのも、一面の真実でしょう。基本的には、公式に現実の姿を「教育」するためのメソッドが必要ではないかと考えています。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

2014年8月 1日 (金)

【防災の心理32】本当に必要な「教育」とは?

連日、紛争地域からのニュースが届きます。自爆テロで数十人死亡、○○地区の戦闘で千人以上死亡、長期の内戦で数万人が死亡等々。しかしそんなニュースを見ても、その現場の凄惨なイメージを想像し、恐怖を感じる人は少ないでしょう。自分に関係の無い海外の話なら尚更です。

では、東日本大震災直後を思い出してください。○○町で数百人が死亡、○○海岸で千体以上の遺体を収容というような、現代の我が国ではだれも考えなかった、まるで戦時のような"異常な"ニュースを、連日目の当たりにさせられました。

それでも、そんなニュースはあくまで「数字」に過ぎず、そこから根源的な死の恐怖を感じることはなかなかできません。家族を失って嘆き悲しむ人の姿を見ても、悲惨さは伝わっても、恐怖と苦痛の中で亡くなった人々の現実を感じることはできません。

でもそこには凄惨な大量死という現実が確かに存在し、それこそが巨大災害における恐怖の本質です。しかしそのイメージはほぼ完全に覆い隠され、現場にいた人々以外には、本当の恐怖は伝わっていないのです。管理人は震災の二ヶ月後から福島と宮城の津波被災地に入りましたが、その頃には現場に立ってさえ、そこで起きた大量死という現実の断片さえも感じることはできませんでした。あくまで、想像するだけだったのです。

ではそこで何があったのか。そこにいた人々は何を見たのか。管理人の知人に、震災の二日後、3月13日に宮城県の津波被災地に救援物資を届けた人がいます。詳しい場所は記しませんが、そこで見たことを伺いましたので、敢えてそのまま記します。非常に凄惨な内容ですので、ご注意ください。

『海岸沿いの道を走っていると、何キロにも渡って波打ち際に遺体が浮いていた。子供の遺体もたくさん見えた。街に入ると、高さ10メートルにもなるがれきの山がいくつもできていたが、どの山も半分くらいが遺体で覆われていた。ほとんどの遺体は、がれきの濁流に巻き込まれたために激しく損傷し"普通の状態”ではなかった。しかし血は水で洗い流され、傷口はみな白くなっていた。街全体に、死臭が漂っていた。』

被災地にいた人々が目にした、現実のごく一部です。生き残った人々はその中で家族や知人を探し、消防、警察、自衛隊員などは、そんな遺体を捜索、収容したのです。それがどんなに悲惨で過酷なことであったか、想像できるでしょうか。


今震災では、行政、メディア、そして個人が膨大な量の映像をリアルタイムで撮影しています。その中には、そのような現実を映し出したものも少なくないはずですが、これほどの超巨大災害にも関わらず、本当に悲惨な映像は、見事なまでに我々の目に触れることはありません。

前記事でも書きましたが、管理人はそれらを全部公開しろと主張しているのではありません。十分な配慮は必要なのです。興味本位で見て良いものでもありません。ただ、「これでいいのか?」という思いも強いのです。

2万人以上の人が亡くなったり行方不明になっているのに、そして同じような危険が他の多くの人々にも降りかかる可能性が小さくないというのに、その最も本質的な恐怖であり、最も避けなければならない「死」を、これほどまでに覆い隠すことが、果たして正しいのだろうかと。然るべき機関などが、然るべき方法で、十分な配慮の下で「教育」のために公開する必要があるのではないかと。

事故でも災害でも、そこで起こる凄惨な「死」を直視させて現実の恐怖を感じさせることが、個人の防災意識と災害対応力を最大限に発揮させ、ひいては犠牲者を減らすための最も効果的な方法ではないかと、管理人は考えるのです。実写がダメならアニメでもCGでも、とにかく現実の恐怖を「教育」するという発想はできないものでしょうか。


前記事をお読みいただいた読者の方から、以下のようなメッセージをいただきました。
『私の通った女子高では、交通事故や火災の現場、遺体安置所、病院の中などの映像を、年に数回、全校生徒に見せていた。でも今はもうやっていないようだ。』

管理人の免停講習の話もそうですが、以前はそういう「教育」も行われていましたし、今も少しはあるかもしれません。でもそれが「悲惨すぎる」とか「ショックが大きすぎる」などという"配慮”によって、ほとんど無くなってしまっているようです。若い人にこそ、そのような「教育」が必要だと思うのですが。


近年、小学校などでスタントマンが交通事故を再現して、その危険を教育するメソッドが行われているそうです。それを見た子供たちには、きっと一生ものの高い安全意識が植え付けられるでしょう。あんなに怖い、痛そうな事故には絶対に遭いたくたくないと。そういう思いを植え付けることが安全・防災教育の根源に無ければ、その効果は半減してしまうでしょう。要は、本能的な恐怖をかき立てるのです。

そして高校生くらいになったら、さらに現実の恐怖を直視させる防災教育と、救命救急講習を必修とするくらいになればいいなと、管理人は思うのです。我が国は、世界でも有数の災害大国なのですから。


さて、ここまで管理人の考えを述べて来ましたが、上記のような「教育」がすぐに実現するとも思えません。もしあなたが事故や災害の悲惨な現実を直視し、自らの安全・防災意識を高めたいと思われたら、どうすれば良いのでしょうか。

次回に続きます。


■当記事は、カテゴリ【防災の心理】です。

より以前の記事一覧